2014年7月30日水曜日

紫微斗数占星術と宿曜占星術の符合

鑑定をする時に、一つの占術だけでなく、2つの占術で鑑定する事をよく耳にします。

紫微斗数を教えて頂いた師匠は、「紫微斗数」と「四柱推命」は、互いに足りない部分を補完しあう命術であると。紫微斗数は、「顕微鏡」つまりマクロ的な命術。四柱推命は、「望遠鏡」つまり、輪郭ははっきりしないが、全体像が観えると、おっしゃっていました。
確かに、四柱推命は吉凶はハッキリ出るですね。ただ、どんな風に良いのか、悪いのか、起こる事象を解釈するのには、それなりの長い年月の経験が必要になります。

紫微斗数は、命盤を作成すると、先ずは人生に必要な要素の事象が現れます。その事象が、其の人にとって良いことなのか、悪いことなのかは、12宮の星曜だけでは判断が慣れないと難しいのかも知れません。紫微斗数で、「四柱推命」並みの吉凶の判断を得るには、「飛星」の技術が必須と思います。12宮の星曜だけでは、判断に悩むことも多いでしょうし、宮の星曜の状態が良いのに、「飛星」すると、あまり宜しくない場合も多々あります。実際に経験的に思うのに、飛星の結果の方が正しいことが多いです。

ただ、飛星も吉凶混濁状態で現れる場合もあり、其の場合には経験が必要なのかなと感じます。

一方、私は「宿曜占星術」を併用しています。大概は「紫微斗数」一つで判断しますが、「命宮・遷移宮・福徳宮」が、連携するような感じで性格が現れると感じています。
宿曜占星術の本命宿の性格とが、大概は良く符合します。性格を表現するのには「宿曜占星術」の本命宿の説明は言葉としてまとまった感じで、聞く人も分かりやすいようです。ただ、宿曜占星術だけでは、細かな事象について漏れがでてしまうので、紫微斗数の副星の意味も鑑みながら説明をすることになります。

相性の善し悪しは、恋人、結婚、仕事などによって異なります。
全てに良い相性というのは、そう有るものでは無いのでしょうけど、宿曜占星術では、「四柱推命」の吉凶判断のように、相性の善し悪しがズバリ出ます。そこで、どんな面が良いのか悪いのかは、紫微斗数で互いの命盤を鑑定すれば、二人の利害の急所が観えてきます。

2つの占術の併用はいろいろあるようです。
2つの命術を使う場合、命術と相術、命術と卜占など様々です。

いずれにしても、不思議と2つの占術に符合が見られるということです。


対面・メール・電話・LINE 無料通話 鑑定OK。

 鑑定内容のフォローも安心です。

◎ 紫微斗数占星術・宿曜占星術・タロット・観相術
           



詳細は
ホームページで→ ここをクリック


 何が原因になっているのか、問題の原因も、
                 紫微斗数の得意とするところです。

2014年7月21日月曜日

17歳の冒険者(第三話)

前回までの記事で、山形県の海沿いで日が暮れた所までの話しでしたね。

翌日は一気に秋田市まで行こうと考えていました。

元々の計画では、山梨を出発して、日本海の糸魚川に出て、一路海沿いに秋田市まで北上し、十和田湖に寄って、青森県を西から東へ縦断し、岩手県から国道4号線を一路南下し、栃木県から前橋市、軽井沢を通って小諸市から山梨へ戻る計画だった。

其の日は三日目、天気は相変わらず晴天、8月の太陽が眩しかった。国道7号線を順調に北上。

お昼ごろには秋田市まで○○Kmの道路標識も見えてきた。
それまで、半袖シャツで東北、日本海の風を切って気持ち良いツーリングだ。

しかし、秋田市に入る頃、にわかに前方に霧が広がっているのが見え始めた。空は晴天なのに。
やがて、バイクは霧の中に突入。上を見上げれば霧越しに青空が見えているのに、急に冷蔵庫の中に入ったように寒くなり始めたのだ。これは一時的なものと、頑張って走る。
しかし、寒い。バイクを停め、持っている着替え全部を着込んで、再びスタート。
それでも寒いのだ。手も冷たい。まるで冬の天候なのだ。我慢に我慢をして走り続けたが、ついに身体がガタガタ震えだしたのだ。

こんな体験は初めて。このまま、走り通して青森まで行ったら、凍えて倒れてしまいそう。
十和田湖へも行けそうもないと感じ始めた。

そうこうしているうちに、国道の分岐に差し掛かった。
国道13号線と記憶しているが、直進は「秋田市」、右折は「大曲」の道路標識があった。
「大曲」へ向かえば内陸部を通って、東北を南下することが出来る。
青森か帰還か迷ったが、寒さには勝てなかった。

結局、大曲ヘ向かい、国道13号線を走り始めた。
そして、40分も走ったら、山岳部へ向かっての登り道となってきたら、先程までの霧は晴れて、夏の暑さが戻ってきたのだ。

少し後悔の気持ちにもなったが、引き返す勇気はなかった。
結局、其の日は、秋田市~大曲~湯沢~新庄~尾花沢と走り通してしまった。内陸は暑いこと暑いこと。

<続く>

17歳の冒険者(第二話)

朝露の田んぼの草むらから飛び起き、日本海沿いの国道をひた走り、新潟県と山形県の県境を超える。今朝はまだ朝食を摂っていないのだ。現在はこの辺りは、どんな賑の国道になっているか判りませんが、当時は家など一軒も見当たらない所でした。

オヤジのバイクはもう老体です。平均速度は40Km/hが良い所。
それ以上、アクセルを吹かせば、いつエンコするか判らない代物。長野県から新潟へとは結構下りが多かったから良かった。でも、山形県境に向かう国道は意外と上りの連続。なるべく海沿いを走りたかったので、それなりの道を選んで走った。
道はいつしか、国道7号線になっていた。

山形県に入り、鶴岡市の由良漁港辺りの雑貨屋で朝昼の食事を買うために店に入った。今では「懐かしの昭和史」に出てくるようなお店だった。中にはちゃんと、昭和史に出てくるような、おばあちゃんが店番をしていた。
クリーム入りアンパンと瓶入りの牛乳を買って店先で食べていたら、お店のおばあちゃんが話しかけて来た。

「どっさ、ござったなすぅ?」
「はぁ~??  茄子ですか?」

「おめ~んどこだぁ~?」
「お面ですかぁ?」

「ほだなごと・・・」
「あの~、言葉が分からんだけんど~?」

「どさ いぐなやっす?」
「??」
<俺は学校の英語の教科は苦手なんだよな~、おばあちゃんの言葉は外国語に聞こえた>

おばあちゃんには、私の言葉は良く理解出来るようだ。
そっか、おばあちゃんは、NHKのテレビなどで標準語の放送を聞いてるから、私の言葉が判るんだなあ。

私は尋ねた。
「秋田市までは、あと、どのくらいかねえ?」
「んだ、秋田んだべが、○△□?!?んだ」

よく判らなかったけど、お礼を言って店を後にした。

由良港を後にして、街道の国道沿いでしばらく、びしょ濡れの寝袋をバイクの上に広げて日に当て乾かした。30分ぐらい時間つぶしして、国道を一路北へ向け走り始めた。
途中、どう道を間違えたのか、国道ではない道を走っている。
結局、何処をどう走ったか判らなかったけど、最上川を超えた辺りで太陽は日本海の水平線に近づきだした。今夜のネグラを探さなくては。
いつも、夕暮れになると走っていても落ち着かなくなるのだ。
この日は、道を間違え、あまり距離を走れなかった。良く整備された岸壁のコンクリートの防波堤に陣取り日が暮れるのを待った。

<続く>

2014年7月2日水曜日

17歳の冒険者 第一話

私が生まれたのは、山梨県。昔の言い方で、

「山梨県北巨摩郡明野村上神取」、現在は「北杜市明野町」です。南アルプスと八ヶ岳、そしてひまわりの畑。東には「日本百名山」の著者、深田氏が最後の登山をし急逝した「茅ヶ岳」の雄大なパノラマ風景の満喫出来る所です。

右の写真は、南アルプスの鳳凰三山の峰々を背景に明野町の名所、ひまわりです。

私の紫微斗数の遷移宮は「太陽(旺)・生年化権星」です。
命宮は、悩んだ末に、「太陰星(旺)・肇羊」。悩んだというのは、出生時刻です。
いろいろ過去の事案から、やっぱり「これだな!」と思ったから。

私が高校二年生の夏休み、何か、どんでもないことを、やってやろうと考えていました。私の実家は超田舎のドン百姓、貧乏でした。ちょっと変わった家庭環境の中で育った、五人兄弟の末っ子。
すぐ上の兄とは6歳も離れているので、一人っ子状態で育ちました。
養育は、「放し飼い」でしたから、親からうるさい事は滅多に言われない、というか、父親からは無視!?
可愛がってくれたのは、おじいさん。
しかし、おじいさんは私が10歳の時に他界。

前置きは、これくらいにして、私が夏休みに思いつたのは、貧乏な家でしたけど、何か思い出作りをしたくて、そこで考えたのが「無銭旅行」です。
でも、歩くのは嫌だったから、親父のボロの50ccのバイク。関東地方では「カブ」という名で親しまれた、ホンダの原付きです。
でも、本当は「ホンダ製」ではなく、「ヤマグチ」というバイクメーカーの製品でした。今となっては誰も知らないでしょう。

オヤジに「友人の家に行ってくるから、2日ほど貸してや」と、言って乗り出す予定で準備をしました。お袋には、一応本当の事を言いました。

<以下、甲州弁>
「俺、バイクで東北方面を一周してくるから、一週間か十日間ぐらい帰ってこんで」
「銭(ぜに)はどうするだぁ?」

「お母ちゃん、悪りぃけんど、5000円ほど、くりょうしぃ」
(通訳:お母さん、悪いけど、5000円程、頂戴 (^O^))

「ほんだけんど、大丈夫かぁ? 銭はやるけんど・・・」
(通訳:そりゃあいいけど、大丈夫かい? お金はあげるけどね・・・)

「大丈夫だってばぁ~」
(通訳:大丈夫さぁ~)

「ほうかぁ~、じゃあ、気を付けていけしぃ」
(通訳:そうか、それなら、気を付けて行ってきなさい)

何ともあっけなくOKだった。
それで、5000円を持って、バイクの荷台に農業用のブルーシートと寝袋、少々の着替えだけを持って、田舎の家を出発しました。

ぶ厚いドライブ用の道路地図(全国版)が便りであった。
ルートは、山梨明野村~長野県諏訪市~松本市~新潟県糸魚川へ一日走り通しで到達。

其の夜は、糸魚川の浜辺の砂浜に有る小屋で野宿。
夜中に打ち寄せる波の音が、やけに大きくなって、寝ている所まで波が押し寄せるかと、気がきではなかった。
この頃、北朝鮮の拉致が頻繁に起こっていた時期であった。
今に思えば、クワバラ、クワバラ。

翌日は散歩の人に、不審者と思われるのが嫌で、夜明けと共に起きだして、バイクで走りだした。
ガソリンは一日一回の給油で1~2リットル、金額は定かではないが、1リットル20~30円だったかな・・・。食事は原則「アンパンと牛乳」だけ。一食合計100円以内。何しろ物価が今とは桁違い。今から50年ぐらい前の話しだからね。

二日目の工程は、糸魚川~新潟県と山形県の県境辺り。国道345号線(今で言う)。其の夜は海沿いの国道は断崖のような所なので、寝る所が見つからず、国道脇の田んぼ道を高い所に登ると水田があったので、その水田の少し広くなった草むらにブルーシートを敷き、寝袋に入って顔だけを出していた。辺りは真の闇、満点の夜空に星がまたたく。カエルの大合唱が寂しさを和らげてくれる。其の内に寝込んで、夜明け前に目が覚める。夜露で顔がびっしょり!
でも、また寝込んでしまい、気がついたら朝日が顔に射していた。
と、突然、長靴履いたオジサンが寝ている私の側を、不思議そうな顔をして見おろしながら通り過ぎた。私もびっくり!
慌てて、寝袋、シートを丸めてバイクに括りつけ、その場を走り去ったのだった。

夜露で寝袋はびっしょり。何処かで広げて乾かさなければ、今夜寝ることが出来ない。

やがて、バイクは山形県に入った。ずっと左手に日本海を眺めながら。天候にも恵まれ続けている。無銭一人旅も慣れてきて、ちょっと楽しくなってきた。

<続く>
コスモス

宮立命ブログは引っ越しをします。

Goo blog をご覧の皆様いつもご訪問ありがとうございます。 宮立命のblogはAmeba(アメーバ)blogで情報展開中です。 どうぞ、ご訪問をお待ちしています。 こちらのGoo blogは今回で更新を終了します。 宮立命アメーバブログは以下のAmeb...