2017年9月30日土曜日

寄進について思うこと

人の為にお金を使うことが大切という訳ですが、お金を与える相手が自分の好きな人では、あまり意味がないという事のようです。
好きな相手にお金を使うのは「我欲」に当たるからと思います。縁もゆかりも無い困っている人に使ってこそ、世のため人の為と思います。
また、その時の自分の想いも重要と感じます。
つまり、幾らお金を使っても、その見返り(金を使うのだから何かを叶えて欲しい)という物を望んでの寄進は「我欲」に当たるからです。
本当の寄進は、困っている人が少しでも楽になってくれたなら」と本当に思える使い方のことを示していると思います。

2017年9月23日土曜日

10年運の大吉と大凶は一生に一度だけ



紫微斗数も四柱推命も10年単位の大きな運勢を調べることは簡単に出来る。

紫微斗数では、これを「太限」といい、四柱推命では「大運」という。
これらの10年単位で変化していく運勢は図のように大きなサインカーブのようなものだ。
実際は図のように綺麗なサインカーブでは無いと思う。もっと複雑では有るが、基本的には吉運と凶運が交互に巡ることになる。



人によっては吉運と凶運がセットで一緒に巡る人も有るが、その場合には吉運の時でも凶運が一生に引っ付いているので、「もの凄くラッキーということも無かったが、最悪の時にも何故か必ず助けが入った」などという感じだ。

ここで取り上げるのは、吉運と凶運が別々に巡る場合をテーマにする。吉凶一緒に巡る人の割合は、私のこれまでの統計的な感じでは全体の1/5ぐらいかなと思う。
それ以外の人は吉凶別々に巡っていると感じる。

中には吉も凶も砂漠の「2こぶラクダ」の背中のように中吉二回、中凶二回といった感じで巡る人も居るが、そのような場合は大吉や大凶が巡らないので、吉凶が有っても割合平坦な感じになる。


問題なのはハッキリと大吉と大凶が分かれて巡る場合だ。
大吉の時期には大ブレイクする可能性が有るが、いったん大凶になると、とんでもない事も起こる運勢なのだ。
有名人にも良く見かける人生がそれだ。

若い時期に大吉が巡ると20歳程度で世界一ということも有り得る。もちろん本人の努力も有っての事だが、しかし若年期の大吉は後が重要になる。

大吉の成果を自分の才能だけで成し遂げたと思い込む危険性なのだ。
誰とは言わないが、20歳代で人類史上の稀に見る最年少世界記録、なんていう場合だ。
このまま、中年まで勢いを維持できれば良いのだが、中年期には最下位何ていうこともあり得る。
もし、こんな場合をアドバイスするなら、成績が最高潮の時期にかっこ良く引退が良い。
多くのファンに惜しまれ永遠の名声を手にして現役を引退するのだ。そして、その名声を武器にその業界で後輩の指導や活動に尽力することで低運気になっても、大凶という状態には成らないだろう。
もし、欲に目が眩んでいつまでも現役を頑張ろうとするならば、大凶が巡る時には幾ら頑張っても成績は伸びずに落ちるばかり、こうなると誰も見向きもしてくれなくなる。
「昔は世界一だった」といっても、落ちぶれてしまってからでは惨めで、どうしようもない。

そんな有名人は結構居るのではないかな。


安室奈美恵さんは素晴らしい引け際と思う。彼女の運勢がどうなっているのかは知らないが、彼女の名は永遠に語り継がれるだろう、伝説のように、まさにレジェンドなのだ。


若年時に異常なほど好調だったら、運勢、せめて10年運がどのように巡っているのか知って置いた方が安心だ。10年運が割合緩やかに落ちて行くのならまだ良いが、サインカーブのように急激に落ちるのなら好調期に後半の人生の計画を建てた方が良いだろう。

落ちてからでは、何事も持ち上げるのは大変だ。吉運の時は努力がそのまま実ることが多い。しかし、低運気では100の努力をしても40ぐらいにしか成らない場合も多いのだ。下手をすれば人並みの生活をしようと思うなら、人の倍の努力が必要の場合だって有る。

しかも若年時に好調の場合は、あまり苦労をしないで成果が出てしまうので、低運気に成った時に苦労の経験不足で旨い対応が出来なく失敗する可能性も多くなる。低運気の失敗は応えるものだ。損害が大きくなる。当然、心のダメージも大きい。彗星のごとく現れ一世をフウビしても、その後に落ちぶれて自死したり、貧困に埋もれて生きている、なんていう場合もある。


これが、大凶が先に巡って、中年以降に大吉が巡るなら最高だ。
大凶の苦労は若い時なので何とかなる。苦労してたくさんの経験も積める。そして晩年に向かって大吉となれば、たとえ還暦近くでも何かを始められて大ブレイクも可能になる。

いくら若い時に栄華を誇っても、年老いて惨めな人生ほど辛いものはない。

人生の運勢の大きな波が、どのように巡るのかを知っておくことの意義は大きい。



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2017年9月22日金曜日

鉄の心

鉄の心

  過去にも数回こんな記事を書きました。
ご相談には様々な内容が有りますが、生涯に起こる問題や悩みも紫微斗数では命盤を分析することによって予見出来ます。
また、その問題や悩みも、ご自身の心の状態が原因ということも多く、そのことも命盤に現れていて、将来必然的に起こってくるということも予見出来るのが紫微斗数です。

ご相談に訪れる時には、すでに前述のような問題が起こってからということが普通ですが、その原因となっている心の状態も、問題が起こる状態にすでになっています。

その心の状態というのは、様々では有りますが、問題の起きやすい心の状態という原因が、幼少期に有ることも多いですし、元々持って生まれた性格に起因することも多々あります。
生まれつきの場合の多くは、遺伝(?)的とも感じます。お爺ちゃんに似ているとか、お父さんに似ているとか。ただ、幼少期にそんなお父さんやお爺ちゃんを観て育った場合も有るのだろうとも感じます。観て育った場合は、父母宮などにも現れています。

いずれにしても、原因が父母や祖父母に有ったとしても、問題の発生は本人に現れるので父母を恨んでも、結論から言えば何にも成らないと云えます。

でも、様々な問題、苦悩の原因が父母に有ったと気付き、本当の自分を取り戻せた時には、それまでの苦悩が嘘のように消えて行く場合が多いです。

しかし、少数派ですが、苦悩の原因が例え解ったとしても前に進めない人たちがいます。
過ぎ去った過去をいくら憎しんでも恨んでも、今が楽になる訳でもなく、むしろ心の状態は益々悪くなって行きます。これを「紫微斗数」流に言うならば、過去の悪の状態に粘着、囚われて未だに心の自由が取り戻せない、悪の奴隷になっている、ということです。
こんな現象はまるで「化忌星」の象徴です。

すでに本人を取り巻く環境は良い方に変化し、何の問題も無くなっているのに、本人の心は何十年も前の過去に鎖でつながれている奴隷のようです。
こんな状態を紫微斗数では判りますので、それなりのアドバイスやカウンセラーさんを紹介するなどしますが、ここで厄介な問題が起こるのです。
この少数派の過去の奴隷になっている人たちの多くが、本人はまったく自覚出来ないのですが「頑固」という魔物に蝕まれていることです。
「辛い、辛い」と常に訴えるのですが、自ら何か方法が有るのなら何でも試してみようとは思わず、誰か何とかしてくれる人は居ないのか? と探し続けるのです。

人の心を変えるのは容易では有りません。「マインドコントロール」なんていう方法も有るけれど、それが本当に良いのか疑問ですが。
一番良いのは、自ら心の中から変化して行くことと感じます。

よく聞くのは「もう、そう思うことを我慢する」
これはダメです。「我慢」ということ自体が問題なのですから、我慢なんてしないで、普通に「そう思える」、そんな心の状態が良いのですが。

過去の憎しみ、恨みから開放された時の心の状態って、それはそれは見事な日本晴の空を眺める爽やかさが味わえるのですから、もっと言えば、監禁状態から開放された自由、身も心も軽いとは、こんな状態と思います。この私も体験していますから、開放された後はなんて素晴らしい世界が有るのだろうと、すべてに感謝の気持ちが湧いてきます。当然、物事も旨く行くようになります。


誰かに心を変えて欲しいと思うのではなく、自分が変わりたい、そのためには何でも試してみたいという気持ちになることが必要と思います。

神理で「因縁解消は因縁の自覚が先」と云われます。

「頑固」な方には、他者のアドバイスに耳を傾けようとはしません。何を聞かされても「そんな事は有りません」と否定し続ける。
だけど、誰か助けて欲しい、と常に願い続けてはいますが、心は直接に手を突っ込んで治すことが出来ないのです。外科手術をするような訳には行かないのです。


このように、鑑定に来ても何にも変化の起こらない方の命盤には、そんなシナリオが現れています。是非ともシナリオを少しでもアレンジ出来ることを願っています。



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2017年9月19日火曜日

鑑定後のお問い合わせ出来ます

鑑定後のお問い合わせについて

■ご質問
先日はありがとうございました。
 彼に母子手帳等探してもらったのですが、見つからず、出生時刻は分からなかったのですが、もし分かったとしても、相性が良くないというのは変わらないのでしょうか


■お答え
先日は有難うございます。

そうですね、基本的な相性は生年月日で出てきますが、生まれ時刻が判れば、具体的にどんな所が良くないのかが判りますから、お互いに相手の良いところ、悪い所を知ることによって旨く付き合って行くことも可能です。
例え話をすれば、かっこ良い車を買ったとしましょう。見た目はとても気に入っていたのですが、高速で飛ばそうと思ってもイマイチ調子が上がらず、運転していてイライラしてきます。
車をよく調べたらかっこうは良いのですが、エンジンやサスペンションの性能がイマイチ良くなかったのです。
しかし、今更車を買い換えることは出来なかったら、高速道路はあまり走らせずに一般道路で行けば、特に問題が無かったりします。また悪路もイマイチでオフロードには向いていないことも判りました。そんなら、ごくごく普通の用途に使えばイライラもせずに済むことに気付いたという訳です。

彼氏との問題も、相手を互いに知り、欠点は欠点として受け入れ、優れた所を互いに評価し合って行けば、問題も少ないでしょう。また、欠点など足りない部分は互いに補い合うことでも克服出来ます。
これが、相手をよく知らないと、「何故?」という疑問が出てきて、「なんで、そんなこと出来へんね?」と成るわけです。
ただ、致命的な欠点が有ったりして、どうしても受け入れる事が出来ないとなると厳しいですけど。その場合も生まれ時刻が判れば、致命的な欠点なのかの判断も出来ます。



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鑑定お申込みに便利なLINE

鑑定お申込みに便利なLINE

宮立命 (静岡市)への鑑定お申込みには、ホームページの「お申込みフォーム」で必要事項を入力頂いて「送信アイコン」をクリックして頂ければ、後は自動的に私のパソコンメールに転送されてくる仕組みになっています。
この場合のお申込み、お問合わせはメールという形式で送受信します。
メールというのは結構面倒なものです。
先ず、アドレス(宛先)を入力しなければ成りませんし、「件名」も未入力ですと迷惑メール扱いに成る場合もあります。

そこで、私は「LINE」も日常的に使用させて頂いています。
LINEの便利な点は、いちいち「宛先」の入力が必要ない、「件名」も不要、いきなり挨拶文で本題に入れることです。
更に送信出来るファイルも汎用性が優れいて居ることです。
いちいち「添付ファイル」形式ではなく、送信したいファイルを選択し「送信」のみで相手に送信されます。またファイルの大きさも制限はほとんど有りません。メールですと「2Mb」までしか送信出来ませんので、鑑定に必要な資料など複数回に分けて送信しなければ成りません。
その複数回の送信に、いちいち宛先、件名の入力も必要になります。
LINEですと送信したいファイルを「Ctrl」キーを押しながら複数個選択し、「送信」で一斉に送信出来ます。


ただ、LINEで送受信する場合に必要な事があります。
初めてLINEで送信されて来る方は、「友達登録」という作業が必要です。
それは、私のLINEIDへ「友達申請」をすることです。私のIDは公開設定に成っていまして、「友達申請」を行えば自動的に私のLINEに表示されます。
私はLINEに「友達申請」が表示されたら、「友達」に追加して、以下のコメントを返信します。




ここで、LINEで友達申請をされて来る方にお願いですが、ほとんどの方が「ニックネーム」ですので、何処の誰なのかが不明です。最近多いのは「出会い系」からの友達登録です。
出会い系の申請は直ぐに判ります。大概は可愛い女の子の写真がプロフィールに成っていてヌード写真なども表示されていますから、さらにコメントにH、卑猥なコメントが付いていますから。こういう業者のLINEは即刻「登録拒否」でブロックします。

一般の方の中にも出会い系に間違い易いものも有りますので、是非一言氏名などのコメントをお願いします。

LINEでの鑑定依頼は直ぐに鑑定の日程、出生データーの送信、ご相談内容などのやり取りが出来ます。メールのように1日単位でのやり取りではなく、10分程度の期間で鑑定予約が完了します。では、LINEをお待ちしています。
宮 立命 (静岡市)のLINE IDは、miya19511です。



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2017年9月17日日曜日

父の人生 ①

父の人生 

母が70歳前ぐらいに脳卒中で倒れ、以後は半身麻痺で歩くこともままならなく成り、温泉病院のリハビリを薦めるが「嫌だ」ということで、リハビリは諦めて退院許可が出たら、家に戻ろうということに成った。

治療が進みトイレにも歩いて行くようにと病院内で歩行のリハビリが始まった。
理学療法の先生に付き添ってもらい病院の廊下で歩行器を使い歩く練習である。麻痺している方の足は引きずるのが精一杯で3m進むのにも時間が掛かる。しかし母は一生懸命である。あれほどリハビリは嫌だと言ったくせに、いつまでも歩行練習を続けていた。しかしだ、手の方のリハビリになるとガンと拒否である。
拳のように握ったままの手は、棒の先のようになって何の役にも立たない。

理学療法の先生が病室に来ては、指を一本ずつ動かすマッサージをしてくれるのだが、「痺れていてくすぐったい」と触らせるのさえ拒否する始末である。なのに足のマッサージは痺れてくすぐったくても受け入れていた。私には母の魂胆は読めていた。歩けないと自分が何より不便で困るが、手は片手が使えれば取り敢えずは生活が出来るからだ。

これで、手も普通に使えるように成ったら、倒れる前のように親父に畑仕事をやらされるのではないかと、それを何よりも恐れていたのだろう。退院して何ヶ月も経った頃、こっそりそのことを指摘したら、母は「お母ちゃんわな、もう、こんりんざい畑にゃあ行かんからな」と笑っていた。

半身不随になってからの方が母は明るくなった。
毎日が楽しいと、朝から夜まで家の中にいて本を次から次へと読み始め読書家に成った。
新聞も隅から隅まで読み通し社会全般、政治、経済、世界情勢までも論評する始末である。
畑で土埃に紛れていたモンペのお婆さんではなく評論家のようであった。それを私に、ああだこうだと講釈をするのには恐れ入った。


元々は母方の親は文芸肌であったから当たり前かも知れない、先祖には俳句の塾を開いていた者も居たそうだ。

一方の父方は根っからの百姓だ。
これではお姑婆さんにイジメられる訳だ。


母が退院して来て片手が完全麻痺なのであるが、台所の家事は何とかやれていた。
出来ないことは両手でやらなければ成らない農作業だった。以来、母は家事全般に徹していた。バケツに水を汲んで片手で吊るして持ち歩くことは、多少はビッコでは有るが出来ていた。

一方、父親はたくさんの農作業を一切一人でやらなければ成らなくなった。
大工仕事の依頼はずっと来ていたが、ほとんど断っていた。畑の作物が心配で大工に行く暇などは無くなってしまったのだ。そして何ヶ月も大工道具を使わないで蔵にしまって置いたら、カンナもノミも錆び始めていた。錆び始めていた大工道具を久しぶりに蔵から出して、眺めていた親父は如何にも寂しそうだった。
私が「お父さん、道具が錆びてりゃ切れ味は悪りいらに?」
「おお、ここまで錆りゃ、研いでも元にゃあ戻らん、もう大工はお終めえだ」
親父はお気に入りの大工道具には、誰にも指一本も触れさせなかった。
カンナの刃なども常に研いで髭さえも剃れるほどだった。なのにだ、今は錆びて刃先がボロボロ。



親父の幼少期の事は皆目判らない。
お爺さんに聴いても話して貰ったことは無かった。
もちろん母からも聴くことは無かった。分かっているのは母が再婚してからのことだ。
母が言うのには、四人兄弟姉妹の男一人の長男で生まれ、厳しい母親に姉妹の面倒を観させられ、百姓の手伝いも年中させられていたそうだ。
父の母(お姑婆さん)は厳しい人で母が嫁に来て一度も笑顔や笑ったことなど見たことは無かったそうだ。一方、父親のお爺さんは婿入りで陽気な人で部落でも好かれていたそうだ。
当然、お姑婆さんとお爺さんの仲は悪かったらしい。というか、いつも怒って怒鳴っているお婆さんをお爺さんは相手にしていなかったようだ。
お婆さんは父を旦那のように身近の存在にしていたらしい。何をするにも「清治、清治」と頼んでいたようだし、あれほどの神経質で短気の親父もお婆さんには一切立て付けないで大人しく従っていたようだ。
三人の妹たちも全員嫁いだが、先祖の因縁なのだろう嫁ぎ先でそれぞれに苦労していたようだ。
私が物心着いた時には年中、妹たち(叔母さん)が家に来て半日以上、あるいはお昼前に来て、お昼を食べて、更には夕飯も食べて、夕方まで、親父とコタツで延々と愚痴を話していた。親父は「そうか、そうか」と飽きもせずに夕方まで話を聴いていた。
そんな時に母は、その話には一切加担せずに別の部屋で自分の事をしていた。幼い私も親父姉妹の話には子供心にも楽しい雰囲気は何も感じなく、むしろ嫌な雰囲気(二人の形相で)なので、母の居る部屋で、母の針仕事を眺めていた。母が居ない時は別室のお爺さんの膝の中に居た。


お姑婆さんは一生笑顔の無い人だったようだ。
親父の笑顔も見たことは無かったと、母は言っていた。
ただ親父の晩年に私が農作業を手伝うようになってからは、嬉しそうな笑顔は時々見せるようになっていた。しかし、ケラケラ笑うことは有り得なかった
父は兄たちがラジオで歌謡曲など聴いていると、「煩い、止めろ」といってスイッチを切ってしまう。
お爺さんがラジオで落語や浪花節が好きで聴いていると、親父は黙って大人しくしているが、お爺さんが何処かへ行ってしまうと、親父は「俺らあ、本当にこういうお笑いは大嫌いだ」と言って荒っぽくスイッチを切っていた。
楽しいこと、愉快なことは鳥肌が立つくらいに嫌いだったのだろう。
もう、この時にはお姑婆さんは他界していたのだが。



< 続く >


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2017年9月16日土曜日

母の人生④

母の人生

母は、9人兄弟姉妹の最年長の長女として生まれたが、30代に成るぐらいまでに末っ子の弟を残して、他の7人の兄弟姉妹をすべて亡くした。7人の命を引き継いだ分、苦難も7人分だったのかも知れない。更に30歳も年下の末っ子の弟も50歳代で早逝し、母だけ93歳までの天寿を全うした。
生まれる前から、そういう宿命を背負って来たのだろう。そう命盤は物語る。


父は寂しい人生であったろう。
母はまだ良い方だ、「お前がいつも側に居てくれたから、お母ちゃんは幸せだった」と。
でも、私は高校生の頃、小遣いが欲しくて母に年中無理を言っていた。
其の時にはもう母にお金をくれるお爺さんも亡く成っていたから、父が大工仕事で留守の日を狙って蔵の中のコメを30Kgほどずつヤミ米買い取りの商人に密かに来てもらい売っていた。一度にたくさん売ると父に見付かるので、ひと月に一回程度の頻度であった。30Kg3.000円ぐらであったろう。
ヤミ米商人は普通の格好で自転車で来ては大きなリュックサックに入れて帰った。ヤミ米商人も事情は承知していたようだ。


私が小学校に入る前に母はあまり家に居なかった、畑に行っていたのか、何処に行っていたのか、昼にも帰って来なかったことが多かった。朝は居たが知らないうちに何処かに行ってしまい、姿がないのだ。
父に聴いても返事は無く知らん顔。今になって思うと、そういう時にはお爺さんも居なかった。いつも一緒に居てくれるお爺さんも居なく一人ぼっち、居るのは一言も口をきいてくれない他所の叔父さんだった。私は母がもう帰って来ないのではと思い、一日中泣きながら大きな家の周りを探し回っていた。
そんな事がトラウマになってしまったらしく、大人になってからも好きな人は知らない内に何処かに行ってしまう、という思いに悩まされた。好きな人が出来ると去ってしまうのではと思うから、相手からしてみれば「煩い」ということになってしまった。そうすると本当に去って行ってしまった事は多かった。そして、いつも恐怖感を伴った孤独に襲われたものだ。


父の本業は大工だが、大工の仕事の依頼の無い時は、家計費を稼ぐために養蚕や米作りをして出荷していた。しかし一旦、大工仕事が入ると家を一月ぐらいは日中空けた、お爺さんがいる頃は、お爺さんと母で農作業に専念していた。
お爺さんが亡くなってからは母が一人で農作業をしていた。でも夫婦二人でも多過ぎるぐらいの耕作をしていたから、母は休む暇なく作業しても、とても間に合うものではなかった。しかし、父が夕方に大工仕事から帰り、田んぼを見に行って作業が進んでいないと「何をしていた」と怒鳴っては、しまいには暴力を奮っていた。


私が30歳の頃の夕方、母が夕方薄暗くなって一人畑から土埃に紛れて帰って来た。
私は「お母ちゃん、夕飯の支度は?」
「ああ、まだだ、畑仕事が遅れてなあ」
「俺、手伝うよ」
「じゃ頼む、お母ちゃん豆腐屋さんが来るから買ってくる」
といってアルミの片手鍋を持って走って出ていった。
私の実家は大通りから細い道を50Mは奥に引っ込んでいた。
遠くから豆腐屋さんの引き売りのラッパの音が聞こえてくる。

暫くして母が豆腐を買って走って帰ってきた。
母は台所の土間に入って来るなり、へんへなと農作業用の足袋を履いたまま板の間に崩れ込んだ。
「お母ちゃん、何してる?」
「孝宏、お母ちゃん何か変だ」
「ええ? どうした? フザケてるのか?」
「力が入らん・・・」
アルミ片手鍋が土間に転がって、中の豆腐が砕けて土の上に転がった。

父が庭に居た。
「お父さん、お母ちゃんが変だ!」
「どうした」
父は落ち着いて入ってきた。
「澄江!」
「俺、お母ちゃんを病院に連れて行く」
そう言って、私は自分の貨物自動車の後ろの座席を平らにして、父と二人で母を後ろの荷台に寝かせた。
公立病院は車で30分ほどの所に有った。救急車を呼ぶという考えは浮かばなかった。父も付き添い、病院への山道を向かった。すでに日は暮れ、車のヘッドライトがトンネルのようになった木々の梢を照らしていたのが印象的だった。


病院では救急治療室に運び込まれて宿直の先生が診察してくれた。
血圧は上が270,下が200、「脳卒中ですね。脳内に出血しています。入院の準備をして下さい。一切飲食物は与えないでください」先生はそういうと治療の準備に取り掛かり点滴を始めた。
母の顔面左半分が引きつって人相が異常に変わっていた。


母の入院は3ヶ月に及んだ。右半身完全麻痺。
先生は転院して温泉病院でのリハビリを薦めてくれた。

私も母にリハビリを薦めた。
「お母ちゃんはリハビリは絶対しないからな」
「えっ! どうして、このままじゃ歩けなくなるかも知れんって先生は言ってるぞ。片手じゃあ普段も不便じゃん」
「お母ちゃんは片手麻痺でも構わん」
「それじゃ、どうやって生活するだね?」
「お母ちゃんはこのまま不自由がいい。もう畑には行きたくねえ」
「そうか」
「お母ちゃんは不自由になって幸せだ、毎日寝て居られる」

母が70歳になったばかりの頃だった。



< 次は父の人生 >


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宮立命ブログは引っ越しをします。

Goo blog をご覧の皆様いつもご訪問ありがとうございます。 宮立命のblogはAmeba(アメーバ)blogで情報展開中です。 どうぞ、ご訪問をお待ちしています。 こちらのGoo blogは今回で更新を終了します。 宮立命アメーバブログは以下のAmeb...