2017年8月29日火曜日

母の命盤

母の命盤




父とお爺さんのことはすでに書きました。
今回は母のことです。

父の性格や行動から離婚率は高い筈ですが、父の命盤には欽天でいう離婚率はそれほどでも無いです。そのためか死ぬまで離婚は有りませんでした。でも壮絶と云えばよいのでしょうね、私が中学生の頃に、私はしきりに母に離婚を薦めていました。
「お母ちゃん、こんなオヤジとさっさと別れて、俺と二人で何処か別の所に引っ越そうや」
母は、黙っていました。

当時の時代では離婚しても女性が独り立ちしていくのは大変でしたし、何人も子供を授かっているし、田舎だし、簡単に離婚という訳には行かなかったと思います。

母は「貪狼」の女性で命宮に「生年化忌星」です。器量も今風の容姿では有りませんでしたが、そこそこ桃花傾向は有ったと感じます。

兄弟宮に「自化忌と必定」が有ります。母は9人兄弟姉妹の長女で生まれました。
しかし、最初に亡くなった妹は母が5歳ぐらいの頃、母が背負って子守をしていたら気付かない内に背中でぐったりしていて、おばあさんが慌てて病院へ連れて行ったけど、もう虫の息で、そのまま亡くなったそうです。母も妹の死因については解らなかったと言っていました。もしかしたら熱中症だったのかも知れません。

残った8人の兄弟姉妹は成長して、兵隊に行って戦死したり、北海道に出稼ぎに行っていて病死したりと様々な事で次々に亡くなり、母が60歳ぐらいの頃には、一番下の末っ子と長女の母だけの二人だけが生き残っていました。

その末っ子の弟も30歳代に肺結核に罹り手術をして九死に一生を得たのです。しかし闘病生活は長く、結婚していたので奥さんには苦労をかけたようです。弟は退院後も病弱で肉体労働は無理でお爺さんの家業を継いで経師屋さんになりました。しかし、50歳代の時に病気(誤嚥性の急性肺炎?)で急死してしまいました。私が30歳代の時でした。亡くなる前の日に私の家に立ち寄りお茶を飲んで、いつものように1時間以上も談笑して元気に帰って行ったのです。
翌朝、従兄弟からの悲報を聞いた時は、とても信じられませんでした。

母は9人兄弟姉妹の長女で生まれましたが、70歳代後半で一人ぼっちになりました。8人の兄弟姉妹は全員短命でしたが、何故か母は80歳近くまで元気で、お産以外には寝込んだことは無かったと自慢していました。
80歳代になって高血圧が原因の脳卒中で倒れ、3ヶ月の入院後に左半身不随になりました。その後は父も亡くなり、母は私の所に引き取られ同居した後に、今度は私が離婚したので母と二人でアパート暮らしになって、さらに部屋で尻もちを付いたのが原因で骨折し、歩けなくなり老人保健施設を何箇所も点々と引っ越した挙句に、やっと特別養護老人ホーム(特養)に入れました。

老人保健施設では最長3ヶ月しか入所して居られないので、何回も引っ越しをしました。特養に入居が決まった時には、母は大変喜びました。その理由は、衣食住の心配がないからです。私と同居では、私が仕事に出掛けている間は、朝から夕方まで半身不随の身体で、食べることも、トイレも、思うように成らないからです。本当に試練の年月でした。当時は介護制度も無くて、ディサービスも訪問ヘルパーも無い時代でしたから。


母は父と同じように離婚歴が有ります。
父と再婚後も家庭には恵まれず、兄弟宮、父母宮で判るように、実の母親も短命でしたし、父の姑には徹底的に苛め抜かれたと言っていました。父の先妻も苛め抜かれ、胃潰瘍で早くに亡くなったそうです。
姑のイジメは棒で殴ったり蹴飛ばしたりと、今で有れば警察沙汰です。母の実家は小さな商売をしていた家ですから、母に農業の経験は有りませんでしたから、嫁いで来ても農具を旨く使えなかったのです。それに姑は腹を立てては日常的に殴る蹴るの暴行をしたと言っていました。

さらには食事もお爺さん、父、母、子供が5人の大家族ですから、十分に食べる量は無く、母の食べる分は無かったと口癖のように私は聴かされて育ちました。そんな話を私は日常的聴かされて育ったので、父の姑の写真が鴨居に掛けられていても、観るのが大嫌いでした。実際に恐ろしい人相の白黒写真が鴨居に有りました。性格や人生は人相に現れるのですね。父も姑にそっくりの人相をしていました。そして父も母を殴っていました。


母は普段から食べるものに不自由していましたから、それがトラウマになっていたのでしょう。私と父と母の三人暮らしになっても、母は食べ物に異常なほど執着し、食べ物は大切に少しずつ何日も掛けて食べ続け、しまいには腐ったり、カビたりしても決して捨てはせずに全て食べきっていました。

腐って悪臭を放っている食べ物を、私は母に見付からないように家の側の畑に、こっそりと埋めてしまうのですが、母は食べ残しの物が、食べていないのに減ってしまった事に敏感に気付き、私に問いただし迫ってきます。
「孝宏! 何処へ捨てた?」
「そんなの知らんよ」
「嘘つけ! お母ちゃんが勿体無いから大事にしていれば捨ててしまって・・・」

そう言って母は畑に探しに行きます。もう何回も私が、そうやって捨てているので、畑に行けば捨ててあるということを知っているのです。
そして、畑から掘り起こして、家に持ち帰るものだから、私はびっくり仰天です。
しかし、感心します。そんな腐ったものでも絶対に下痢も食中毒もしないのです。
例えは悪いけど、猫や犬、あるいは野の獣のような消化器官の持ち主と思います。もっとも最近の猫や犬は、そんな物を食べさせれば死んでしまいます。


母の9人兄弟姉妹が全員短命でも、母は93歳まで生き抜く強い生命力の持ち主でした。使い切らなかった9人の弟や妹の寿命を母は全て戴いたのでしょう。だから、姑や父に拷問のような虐待をされ続けても長生きが出来たのでしょう。そんな人生であっても母は穏やかで優しい人でした。私も今、見習っています。

その「勿体無いの精神」は、今私が引き継いでいます。いくらお金が入っても食費は12万円に押さえています。これは我慢では有りません。必要としないのです。奈落に落ちた50歳代は月に8千円の食費でしのいでいました。断食なんてしなくても、日々断食生活でした。
そこまで奈落を体験すれば、今は何が無くても幸せに満たされている日々です。


私が物心付いた頃には、父は日常的に卓袱台をひっくり返し、茶碗を投げては暴れていました。
そんな父は財布を握っていましたから、母に家計費は一切渡していませんでした。
毎日の食事の材料は基本的に家の前の畑に有る野菜が中心です。

肉や魚は盆暮れ正月以外には食卓に載りません。唯一、鶏を飼っていましたので、新鮮な玉子は毎日食べることが出来ました。鶏は何羽も飼っていましたが、鶏を殺傷して食べることは有り得ませんでした。
鶏の肉が食べられる時は、鶏が病死した時だけです。ところが、病死した鶏は物凄い悪臭がするのです。死臭なのかも知れません。幼子の私は鶏の肉は物凄い悪臭がするものと思うようになって居ましたから、大人になっても絶対に鶏肉は食べることが出来ず、大嫌いでした。

私は20歳になった時に結婚をしました。嫁さんの実家では鶏肉以外は家族全員が食べない家でしたので、実家に行くと必ず鶏肉が出ます。私にとっては地獄でした。嫁さんの家族は豚肉や牛肉は大嫌いでした、まあ、夫婦仲は最初から悪く、親の因果は子に引き継がれるものですね。なぜ、こんなで結婚したのかは、後々記事にします。


さて、母は一切の家計費も小遣いも夫から貰えなかったので、女性としての最低限の衣類も買うことが出来なかったのです。そこで見兼ねたお爺さんが息子の居ない留守に、こっそりと母に小遣いをあげていたのです。お爺さんは軍人年金が有るのでお金には不自由していませんでした。
ただ、お爺さんがあげた小遣いで母が何か買って、その品物が父の目に留まれば、お金の出処を追求されタダでは済みません。また殴る蹴るの暴力です。そのため母は何かを買っても、いつも父に見付からない場所に隠していました。衣類などは何処かに出掛ける時には、小物入れに忍ばせ、普段着で出かけて、部落を出た山の中で着替えて行ったと言っていました。また帰って来る時も山の中で薄汚れた普段着に着替えるという面倒なことを日常的にやっていました。

しかし、それでも困った事も時々有ったそうです。よそ行きに着替えた後に部落の人とすれ違ったりすると、その人が父に「奥さんは、今日は何処かにお出かけだねえ、お洒落してすれ違ったよ」なんてバレてしまった事も有ったそうです。
ですから、それ以来は部落から遠く離れた山の中や河原の大きな岩の陰で着替えたそうです。


私が中学生や高校生になると、どうしても肉や魚を食べたがるので、母はお爺さんから貰った小遣いで近くの行きつけのお店でハムなどを買って来ますが、それを父に見付からないように食べなければ成りませんから、母はハムを茶碗の底に置き、その上にご飯を被せてハムが見えないようにして食べさせてくれました。
しかしそれでも母は細心の注意を私に躾けました。
ご飯の中からハムを掘り出して食べる時も、「父にハムが絶対に見えないように」と、更には「ハムばかりでご飯を食べないで、卓袱台のおかずに箸を出しなさい」

そうしないと不自然だから、漬物なども食べながら自然に振る舞うこと。と強く言い聞かされました。そんな食べ方をするので、私は食事が窮屈と緊張で、もの凄く疲れました。でもハムは大変に美味しかったです。今に成れば母に感謝です。

また、母はハムを買う事が、お店の人から父にバレないように買い物の事は内緒にして貰っていました。


こんな状態ですから、私が高等学校に行くようになって学費を持っていく時にも、父からは毎月文句を言われていました。その時、私は毎回も叫びたかったです。

「子供に学費を出すのが、そんなに嫌なら、俺を何故産んだのだ! 馬鹿やろー!」


<続く>


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2017年8月25日金曜日

占い師は仙人じゃない

私が紫微斗数を学び始めた頃に教室で耳にした話です。
教室にはプロの占い師さんが30人ほど集まっていました。
初めて占いの教室に参加した私にとってワクワク、ドキドキする瞬間でした。元々占いなんていうものに興味も無かったし、占って貰うことも無かったのだから、未体験の世界です。
そもそも、占い師という存在が神がかり的で特別な人間の集まりと思っていました。
しかし、そこに集まったほとんどの人たちは一見普通の人達でした。
中には若かりし頃の「シンディ・ローパー」を彷彿とさせるジュエリーや宝石をジャラジャラと身にまとった摩訶不思議な雰囲気のお姉さんもいましたが、特別雲の上の人を感じさせる人は居ませんでした。

教室の回を重ねるうちに、皆さんの話題から、占い師さんといえども普通の人から超オタクの人まで個性あふれることも分かってきました。
そんな中で、「僕は一切テレビや新聞も観ない、そういうメディアの媒介に惑わされないことが大切だ」と胸を張って言われる方がいました。私は「凄いなあ、やっぱりプロの占い師さんて仙人みたいな感じで俗世のことには無関心というか振り回されないんだ」と感心しました。

しかし、あれから何年も経過し私もプロの仲間入りをして、何千人もの方々の様々な人生に関わらせて戴いて、強く感じたことは占い師は仙人なんかじゃ勤まらない、ということを強く感じました。
どうしてかと言うと、ご相談に来る人達が苦しんでいる世界の事に無頓着であったなら、ご相談者さんの悩みすら理解出来ないでしょう。ということです。
貧困の悩みを扱うなら、なぜ貧困に成るのかという社会的な仕組みや背景も理解していないと、ただ単に相談者さんの精神論を云々していても解決には結びつかないと感じます。

様々な事件も今は発生します。昔は有り得なかった事件も多くなりました。これもただ単に運命の吉凶を云々していても何の解決にも導けないと感じます。
つまり理論だけでは解決にならないということと思います。

社会的な背景、俗世の事情が判っていないと、何故そうなるのかも理解出来ないと思います。俗世の状況に、その人が持っている性格や運勢、運命が化学反応するみたいにして様々な出来事、事件、災難が発生すると感じます。

したがって、私はテレビのニュースもドキュメンタリーもよく観ます。

雲の上の仙人や、山奥の仙人で居たなら、俗世の人たちにアドバイスなど出来ないと思います。絵に書いた餅は食えないのだ。

2017年8月24日木曜日

お爺さん

お爺さん

前々回の記事に、私の父(?)のことを書きました。
親子の本当の事が解ったのは私が50歳代になってからです。

物心付いた頃から、良い思い出は皆無でした。毎日が修羅場で、今に例えればイスラム国が活動する中東みたいな毎日でした。

そんな毎日でもホッとするつかの間がありました。それはお爺さんと過ごしている時間でした。
34歳だった頃と思います。今でも脳裏に焼き付いている情景は、お爺さんはこげ茶色の着物を着て縁側に腰をおろし、黒い鉄製の南瓜ぐらいの大きさの煙草盆を側に置き、長い煙管にひとツマミの刻みたばこを詰め込んではマッチで火を付ける姿です。
火を付けた後は23回吸えば、灰になってしまうタバコを煙草盆の縁に、キセルをポンと打ち付け、赤い小さな火の玉の塊がコロコロっと煙草盆の中に転がる。こんな光景を朝から何回も繰り返し見ていました。まあ私も飽きもせずに眺めていたものです。

タバコの品名も今でもしっかり覚えています。総天然色カラーの映像で覚えています。それは「みのり」といって稲穂のデザインの刻み煙草と、「ゴールデンバット」といって動物のコウモリの絵柄のタバコです。時々「しんせい」なんていう名前の刻み煙草も吸っていました。
いずれも値段は、何十円で100円以下でした。タバコは直ぐに無くなるので、お爺さんは私に十円玉を数個握らせ近くの雑貨屋に買いに行かされました。
タバコを買いに行く時は、お駄賃に何か買っても良いことに成っていました。大概は駄菓子とか飴玉です。一個1円ぐらいです。駄菓子屋さんまで自転車で行けば5分ほどですが、4歳程度の子供の足ではメッチャ遠い所に思えました。タバコ買いに行く時は遠いので嫌でした。でもよく素直に買いに行っていたものです。
私がある程度大きくなった時にお爺さんは亡くなりましたが、その時に雑貨屋さんに買い物に行きましたら、雑貨屋さんのおばさんが「孝宏ちゃん、良かったね、今度からタバコを買いに行かされなくてねえ」、私はそんなに嫌な顔をしてタバコを買いに来ていたのか。

お爺さんは、とても穏やかで怒っている姿も、怒られたことも記憶がありません。
でも、冬にはコタツでお爺さんの膝の中に入って抱っこされている時には、お爺さんからは必ず日露戦争の活躍した話を聞かされ、勲章の入ったA4サイズほどの桐の箱を開けて見せてくれました。中には布のリボンみたいな物が付いたバッジのような物が幾つか並んでいました。

お爺さんの日露戦争の話は、「旅順攻囲戦」といわれるものだったが、当時の私にはチンプンカンプンだった。ただ覚えているのは、お爺さんは砲兵隊の大砲係で、大きな山越えで、山の向こうの港の戦艦を沈めたり、山の上の敵の大砲に命中させぶっ壊した話が多かった。
時には大砲の手入れをしていて、間違って大砲をぶっ放して上官に怒られた話など、如何にも嬉しそうに話していた。小さい頃、実家の押し入れの天井付近の棚に日本刀が有った。鞘を抜いてみればボロボロに刃毀(はこぼれ)れした日本刀だった。お爺さんの話では敵兵を何人も切り捨て、その際に骨まで達したので刃がボロボロになったと聞かされた。小さな私は実際に人を斬り殺す、そんな光景を見た訳でも無いので、恐ろしいとかいう感情は沸かなかった。ただ、すごくカッコいいお爺さんに憧れたものだった。

今になって思えば、とんでもないことである。本物の実戦に使った日本刀が家に有った事自体、ヤバイじゃんと思う。しかし、その日本刀は短気を起こして暴れる父が刀を抜いて年中振り回すので、お爺さんが何処かに処分してしまって、私が小学校に上がる頃には行方不明となっていた。

父(?)は第二次大戦中も身体的に小柄だったらしく兵役を免れ「赤紙」も来なかった。大工でもあったので横浜の機関車の客車の木工大工として実家を離れていた。小度胸なので兵役は無理であったろうとも思う。それなのに日本刀を振り回すのだから凄いのだ。
一方で大変に穏やかなお爺さんが武勇逞しいのだから、4歳の幼子も惚れてしまう訳である。

そんな、お爺さんも終戦とともに家に帰り普通の爺さんになったのである。
お爺さんは婿入りで、農業はあまり得意では無かったようだ。職業軍人らしくて兵役引退後はたいそう高額な年金を貰っていたようでお金には不自由しなかったらしい。農業を手伝う訳でも無いので、部落や村々を歩き回って結婚の縁談話をまとめるのが大好きで、何組も世話をしたと、私が大きくなってから部落の人から聞いた。

今の私の人相は、そのお爺さんにそっくりに成ってきたので、内心嬉しいのである。
ちなみに父に似ていなくて・・・なのだ。

お爺さんは、私が小さい頃は常に一緒に居てくれることが多く、小学校に上がってからも遠足にも必ず一緒に行ってくれたし、参観日にも母親が来れない時にはお爺さんが来てくれた。
父親参観日にも、父(?)はコタツでうたた寝し、お爺さんが父代わりに来てくれた。
本当に母子家庭みたいな感じの幼少期であった。

紫微斗数で診ればお爺さんは命宮に「武曲・天府」遷移宮が「七殺」ではないかと思う。

お爺さんには感謝している。


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2017年8月21日月曜日

父親の人生

父親の人生





私の父親(戸籍上の?)の命盤です。
紫微斗数でも欽天派と新しい飛星派の鑑定法を学んだ方に分析して、検証して学びに役立てて頂けたらと思い、これから暫くの期間、私の幼少期の記憶を元に記事を連載します。

この記事の冒頭に「戸籍上の?」としたのは、私の本当の父親は家族の中の別の人が父親だったからです。このことは連載する記事の中で明かしますので、ここでは記述しません。

父親は姉一人と妹二人、三姉妹の中の長男として生まれました。つまり4人の中の男一人という訳です。三姉妹は嫁いだ後も苦労が多く、長男の父の所に年中愚痴を言いに来ていました。

ここで私のことを先に少し述べます。
私の一番幼少期の記憶は多分34歳頃と思います。或いはもっと小さかった頃かも知れません。
その根拠は母親の母乳を吸って呑んでいた記憶が有るからです。もう還暦も6年も過ぎたのに、母親の腕に抱かれて母乳を吸っていた時の乳房の記憶を鮮明に覚えているから不思議です。

母親の背中に背負われて、母親の実家の街にある銭湯に行った時に湯の深さが、私の首までの深さがあったことを覚えています。湯の中で母親に身体を支えて貰いながら湯の中に立っていたのです。それが銭湯だったと判るのは小学校に上がる頃だったと思います。母親は実家に私を背負い2時間ほども歩いて時々行っていました。当時は乗り合いバスも無かったようです。その度に実家の跡取りの弟の嫁さんと私の従兄弟を連れて四人で銭湯に行っていたのです。私はその銭湯をお風呂とは知らずに「海」と思っていたのです。
温かい湯気の立ち上る海です。水平線は湯けむりで見えなかった記憶があります。大勢の人たちが裸で湯けむりの中に居ました。まるで海水浴場のような記憶です。小学校に上がる頃に母親に、その光景を問うたら、それは銭湯だったという訳です。

そんな小さな頃の家庭の記憶を今でも鮮明に覚えています。
その当時の父親の印象は、「お父さん」という印象では有りませんでした。
率直な印象を言えば「大嫌いな知らないおじさん」という印象でした。他人という印象です。

その嫌なおじさんは、いつも短気を起こし母親を怒鳴っては味噌汁やご飯の入った茶碗を投げつけ、朝ごはんやおかずが載った卓袱台をひっくり返していた記憶が日常と覚えています。
いつも朝ごはんの時に短気を起こしては卓袱台をひっくり返していたのです。
そんな時に私はワンワン泣いていたのも覚えています。

何故、そのおじさんが短気を起こすのか、幼子の私には理由が判りませんでした。母親はじっと黙って耐えていたという印象です。

物心着いた時には、そんな日常でしたので、その短気を起こす叔父さんは嫌いになって行ったのです。その叔父さんは私に話しかける事は皆無でした。

その叔父さんの仕事は大工さんでしたので、家の庭でたくさんの材木をノコギリやノミで加工している姿を目にしていました。
好奇心旺盛の私はヨチヨチ歩きながら、叔父さんが仕事している所に近づくと、よく怒鳴られた記憶があります。近づくと怖い叔父さんでした。
ですから自然と、その叔父さんと距離を取っていました。私の実家は農業をしながら父親は大工でした。

当時の私の家族構成はお爺さんと母親、そして父親(戸籍上の)、兄が三人と姉が一人でした。でも直ぐ上の兄も私より遥かに年上で、私の記憶の中では一人っ子という感じでした。
兄たちの遊んでいる姿が記憶に無いのです。いつも兄たちは留守という印象です。唯一姉が私の子守をしてくれた記憶が有ります。

普段の私はお爺さんと過ごしていました。お爺さんは、もう隠居の身の上だったようで、のんびりと縁側や居間でキセルを吹かしていて、私はお爺さんの胡座(あぐら)をかいた膝の中に入っていた記憶が有ります。お爺さんに怒られた記憶は全く無く、可愛がられていたようです。私はお爺さんを大好きでした。

母親は多分、畑仕事が忙しかったのでしょう。日中はあまり姿を見なかったです。母親に叱られた記憶は一度もなく可愛がられていたと思います。最悪の家庭環境でもお爺さんと母親の愛情が、私の波乱の生涯にも大きな支えになっていたと今になっては思います。

父親は家ではもの凄く短気でしたが、他人からは穏やかで優しく生真面目で冗談なんて全く言わない大人しい人のようでした。面倒見も良いと評判だったそうです。

そんな父は母親には早くに死なれたようです。また父の先妻も十二指腸潰瘍で若くて亡くなったと聞いています。先妻はおとなしく控えめな女性のようでした。息子と娘を残して亡くなったのです。父の母親は非常に険しい性格だったと聞いています。父の父親は婿入りでどっしりとしたタイプで「武曲・天府」の男性と思われます。つまり私のお爺さんです。
お爺さんと父はあまり親しくなかったようです。

実家は父が青年期に隣家の火災で消失し、貧しかったので何とか家を自前で建てようと大工になったと聞いています。大工になって最初の仕事が自宅の建築だったようで、寄せ集めの材木で急ごしらえの感じの家でした。そのため、私が中学校の頃には家の土台は沈み家が歪んで傾いていました。

父は短気なのに、ひどく神経質で小度胸でした。部落の集会などに行っても黙って大人しくしている人だったということです。意見を求められれば言うけれど、自分からは発言することは少なかったようです。ただ頼まれると断ることは出来ずに何でも引き受けていたようです。そしてそのストレスが家庭内で発散していたのかも知れません。
神経質で何でも気にするタイプだったので、些細な事でも心配で居られなかったようです。一方で母親は「貪狼」の女性で、父とは真逆のタイプで気に病むということは無かったようです。それがまた父の気に障っていたのでしょう。父は日常的に母に「剛の牛」と言って馬鹿にしていました。確かに母は「丑年生まれ」でした。また母に対して先妻のことをよく褒めては、「お前は駄目な女だ」というのを小さな私も耳にしていました。母にしてみれば気分の悪くなる事だったでしょう。しかし、そんな事に言い返す訳でもなく黙って耐えていたという印象です。

父は本当に苦労性で気の毒な人だったと思います。私の印象では楽しいことは嫌いな人、という印象です。長男がラジオで落語や歌番組を鳴らしていると、父は「聴きたくもない!」といってラジオをのスイッチを切っていました。
私が今、占いをするように成って父の人相や父の母親の人相を診ると、大変に寂しい険しい人相をしていました。やはり人生は人相に現れるのです。一方でお爺さんや母親の人相は穏やかで幸せそうな人相です。

父は年中、一生涯「自分は癌に成るかもしれない、もう癌になっているかも知れない」と常に気にしていました。しかし、82歳で亡くなるまでに癌などには一度も成りませんでした。もっとも神経性の胃腸炎には年中なっていたようです。
冷え性でもあって、真夏でも腰が冷えると口癖でした。超低血圧で上が60程度で下は計測不能ということもしばしばでした。その一方でコレステロールは高く、これは遺伝的なものでしょう。
70歳には認知症が始まり、75歳には日常生活は出来なくなっていました。
50歳ぐらいで不眠は有り、悪夢もよく観ていたようです。夜中に大声で叫んで寝ぼけていました。
外では極めて大人しい人ですが、喧嘩をしている夢をよく観ていたようです。深夜に怒鳴り声を上げていましたから。外では対人関係で、もの凄く我慢していたのでしょう。
幼少期の私には父が、そんなに悩み多い人生と露とも知りませんでした。

私は父を嫌って避けて居ましたが、結局は末っ子の私が実家に残り両親を診るようになってからは、父も私に話し掛けるようになり、私の自営業の仕事も手伝ってくれるようになりました。
その頃には私も父の事を何かと気遣い病院に連れて行ったり、話し相手になっていました。
最終的には戸籍上の父親でも仲良しに成れていました。

幼少期からずっと他所の嫌なおじさんでしたが、最後には父親として受け入れることが出来た私も幸せでした。父もきっと嬉しかったと思います。私の出生も父は許せたのでしょう。

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2017年8月8日火曜日

隠れ「必定」?

隠れ「必定」?

紫微斗数といっても「欽天四化紫微斗数」という命術は、紫微斗数の中でも独特で、三合派や飛星派と同じ紫微斗数の命盤を使いますが、欽天では命盤をひと目見て、その人の人生に大きな出来事や確定的な事が起こることが分かるので便利です。そんな便利な命術ですが、「絶対論の必定」が命盤に無い場合でも、廻る太限(10年運)や年運、月運の象意が強く重なる場合にも「必ず事象発生」が有りますから、このような出来事は命盤から発見しなければ成りません。

しかし、「絶対論の必定」は命盤をひと目見て判りますが、太限、年運、月運を全て飛星して調べる「必定」はなかなか見付けられない場合も有ります。

廻る年月の運勢は、基本的には太限を先ず調べて、その太限に特に凶意が強い場合には、さらにその太限10年間の1年毎の年運の吉凶を調べます。さらに一番凶意の強い年運を、月ごと12ヶ月を全て調べて、最終的には西暦何年何月と特定します。


こんな例があります。
ある男性の仕事運を鑑定した時に、太限の仕事運は悪いが、その年の年運は悪くは無く、翌年が悪い事がありました。
私はその年は悪くないので、悪い翌年の月運を全て調べだしていましたが、悪い事象発生は、その前の年に起こりました。
それは、月運の悪い時に発生しました。
つまり、太限は悪いが年運は普通、しかし月運の悪い月に出来事は起こりました。
普通は「天地人が揃う」といって太限も年運も悪い時に出来事は起こることがほとんどですが、そうとも限らないと感じました。
太限が悪かったら、年運が普通でも月運で悪ければ出来事が起こるとも言えます。
これを探し出すのは容易では有りません。


目次の無い、分厚い本の中の特定の文章を1ページずつ探してゆくような作業です。
これが、目次が有ればいきなりその文章の有る所に近いページを開くことが出来ます。

紫微斗数の鑑定では、多分ほとんどの鑑定士は太限と年運ぐらいしか観ないと思います。その場合にも基本は悪い太限を探し出すことが優先です。悪い太限が見つかれば、その太限中の年運を10年分調べれば良いのです。
悪い太限を探しても、その中の年運が普通なら、その年は気にしないと思います。まさか普通の運勢の年の月運が悪い時に発生は予想もしないでしょう。

このように太限と月運だけで凶意が重なっも事象発生は有るということです。これを「隠れ必定」と言ってよいかも知れません。


このように、一生涯の年と月の運勢を調べだす事は容易ではないのです。

詳しく年毎の運勢を知りたい場合は、毎年直近の年運と月運を12年毎に調べる方法が良いです。



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宮立命ブログは引っ越しをします。

Goo blog をご覧の皆様いつもご訪問ありがとうございます。 宮立命のblogはAmeba(アメーバ)blogで情報展開中です。 どうぞ、ご訪問をお待ちしています。 こちらのGoo blogは今回で更新を終了します。 宮立命アメーバブログは以下のAmeb...