父親の人生
私の父親(戸籍上の?)の命盤です。
紫微斗数でも欽天派と新しい飛星派の鑑定法を学んだ方に分析して、検証して学びに役立てて頂けたらと思い、これから暫くの期間、私の幼少期の記憶を元に記事を連載します。
この記事の冒頭に「戸籍上の?」としたのは、私の本当の父親は家族の中の別の人が父親だったからです。このことは連載する記事の中で明かしますので、ここでは記述しません。
父親は姉一人と妹二人、三姉妹の中の長男として生まれました。つまり4人の中の男一人という訳です。三姉妹は嫁いだ後も苦労が多く、長男の父の所に年中愚痴を言いに来ていました。
ここで私のことを先に少し述べます。
私の一番幼少期の記憶は多分3~4歳頃と思います。或いはもっと小さかった頃かも知れません。
その根拠は母親の母乳を吸って呑んでいた記憶が有るからです。もう還暦も6年も過ぎたのに、母親の腕に抱かれて母乳を吸っていた時の乳房の記憶を鮮明に覚えているから不思議です。
母親の背中に背負われて、母親の実家の街にある銭湯に行った時に湯の深さが、私の首までの深さがあったことを覚えています。湯の中で母親に身体を支えて貰いながら湯の中に立っていたのです。それが銭湯だったと判るのは小学校に上がる頃だったと思います。母親は実家に私を背負い2時間ほども歩いて時々行っていました。当時は乗り合いバスも無かったようです。その度に実家の跡取りの弟の嫁さんと私の従兄弟を連れて四人で銭湯に行っていたのです。私はその銭湯をお風呂とは知らずに「海」と思っていたのです。
温かい湯気の立ち上る海です。水平線は湯けむりで見えなかった記憶があります。大勢の人たちが裸で湯けむりの中に居ました。まるで海水浴場のような記憶です。小学校に上がる頃に母親に、その光景を問うたら、それは銭湯だったという訳です。
そんな小さな頃の家庭の記憶を今でも鮮明に覚えています。
その当時の父親の印象は、「お父さん」という印象では有りませんでした。
率直な印象を言えば「大嫌いな知らないおじさん」という印象でした。他人という印象です。
その嫌なおじさんは、いつも短気を起こし母親を怒鳴っては味噌汁やご飯の入った茶碗を投げつけ、朝ごはんやおかずが載った卓袱台をひっくり返していた記憶が日常と覚えています。
いつも朝ごはんの時に短気を起こしては卓袱台をひっくり返していたのです。
そんな時に私はワンワン泣いていたのも覚えています。
何故、そのおじさんが短気を起こすのか、幼子の私には理由が判りませんでした。母親はじっと黙って耐えていたという印象です。
物心着いた時には、そんな日常でしたので、その短気を起こす叔父さんは嫌いになって行ったのです。その叔父さんは私に話しかける事は皆無でした。
その叔父さんの仕事は大工さんでしたので、家の庭でたくさんの材木をノコギリやノミで加工している姿を目にしていました。
好奇心旺盛の私はヨチヨチ歩きながら、叔父さんが仕事している所に近づくと、よく怒鳴られた記憶があります。近づくと怖い叔父さんでした。
ですから自然と、その叔父さんと距離を取っていました。私の実家は農業をしながら父親は大工でした。
当時の私の家族構成はお爺さんと母親、そして父親(戸籍上の)、兄が三人と姉が一人でした。でも直ぐ上の兄も私より遥かに年上で、私の記憶の中では一人っ子という感じでした。
兄たちの遊んでいる姿が記憶に無いのです。いつも兄たちは留守という印象です。唯一姉が私の子守をしてくれた記憶が有ります。
普段の私はお爺さんと過ごしていました。お爺さんは、もう隠居の身の上だったようで、のんびりと縁側や居間でキセルを吹かしていて、私はお爺さんの胡座(あぐら)をかいた膝の中に入っていた記憶が有ります。お爺さんに怒られた記憶は全く無く、可愛がられていたようです。私はお爺さんを大好きでした。
母親は多分、畑仕事が忙しかったのでしょう。日中はあまり姿を見なかったです。母親に叱られた記憶は一度もなく可愛がられていたと思います。最悪の家庭環境でもお爺さんと母親の愛情が、私の波乱の生涯にも大きな支えになっていたと今になっては思います。
父親は家ではもの凄く短気でしたが、他人からは穏やかで優しく生真面目で冗談なんて全く言わない大人しい人のようでした。面倒見も良いと評判だったそうです。
そんな父は母親には早くに死なれたようです。また父の先妻も十二指腸潰瘍で若くて亡くなったと聞いています。先妻はおとなしく控えめな女性のようでした。息子と娘を残して亡くなったのです。父の母親は非常に険しい性格だったと聞いています。父の父親は婿入りでどっしりとしたタイプで「武曲・天府」の男性と思われます。つまり私のお爺さんです。
お爺さんと父はあまり親しくなかったようです。
実家は父が青年期に隣家の火災で消失し、貧しかったので何とか家を自前で建てようと大工になったと聞いています。大工になって最初の仕事が自宅の建築だったようで、寄せ集めの材木で急ごしらえの感じの家でした。そのため、私が中学校の頃には家の土台は沈み家が歪んで傾いていました。
父は短気なのに、ひどく神経質で小度胸でした。部落の集会などに行っても黙って大人しくしている人だったということです。意見を求められれば言うけれど、自分からは発言することは少なかったようです。ただ頼まれると断ることは出来ずに何でも引き受けていたようです。そしてそのストレスが家庭内で発散していたのかも知れません。
神経質で何でも気にするタイプだったので、些細な事でも心配で居られなかったようです。一方で母親は「貪狼」の女性で、父とは真逆のタイプで気に病むということは無かったようです。それがまた父の気に障っていたのでしょう。父は日常的に母に「剛の牛」と言って馬鹿にしていました。確かに母は「丑年生まれ」でした。また母に対して先妻のことをよく褒めては、「お前は駄目な女だ」というのを小さな私も耳にしていました。母にしてみれば気分の悪くなる事だったでしょう。しかし、そんな事に言い返す訳でもなく黙って耐えていたという印象です。
父は本当に苦労性で気の毒な人だったと思います。私の印象では楽しいことは嫌いな人、という印象です。長男がラジオで落語や歌番組を鳴らしていると、父は「聴きたくもない!」といってラジオをのスイッチを切っていました。
私が今、占いをするように成って父の人相や父の母親の人相を診ると、大変に寂しい険しい人相をしていました。やはり人生は人相に現れるのです。一方でお爺さんや母親の人相は穏やかで幸せそうな人相です。
父は年中、一生涯「自分は癌に成るかもしれない、もう癌になっているかも知れない」と常に気にしていました。しかし、82歳で亡くなるまでに癌などには一度も成りませんでした。もっとも神経性の胃腸炎には年中なっていたようです。
冷え性でもあって、真夏でも腰が冷えると口癖でした。超低血圧で上が60程度で下は計測不能ということもしばしばでした。その一方でコレステロールは高く、これは遺伝的なものでしょう。
70歳には認知症が始まり、75歳には日常生活は出来なくなっていました。
50歳ぐらいで不眠は有り、悪夢もよく観ていたようです。夜中に大声で叫んで寝ぼけていました。
外では極めて大人しい人ですが、喧嘩をしている夢をよく観ていたようです。深夜に怒鳴り声を上げていましたから。外では対人関係で、もの凄く我慢していたのでしょう。
幼少期の私には父が、そんなに悩み多い人生と露とも知りませんでした。
私は父を嫌って避けて居ましたが、結局は末っ子の私が実家に残り両親を診るようになってからは、父も私に話し掛けるようになり、私の自営業の仕事も手伝ってくれるようになりました。
その頃には私も父の事を何かと気遣い病院に連れて行ったり、話し相手になっていました。
最終的には戸籍上の父親でも仲良しに成れていました。
幼少期からずっと他所の嫌なおじさんでしたが、最後には父親として受け入れることが出来た私も幸せでした。父もきっと嬉しかったと思います。私の出生も父は許せたのでしょう。
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