2017年10月29日日曜日

これからの占い


私は、この世界に入って日が浅い
そして、この世界に余り興味も無かったし縁も無かったといえる。
波乱の人生で人の何倍もよい経験をさせて戴いたと、今は感謝が出来るようになったが。

何かの祟か? と思うほどの若年期、中年期の人生で、30歳代に高島易断という名称を名乗る、占い団体の山梨甲府市のホテルでの出張鑑定に親父に連れて行って貰った時、そして同じ年代に友人が連れてきてくれた「霊能者」という占い師に診て貰った以外には、自主的に占い師を訪ねることは無かった。

いずれの占い師も、今となれば大外れである。
「あなたは何をしても一生成功することは有り得ない」と断言した霊能者。
100万円で直ぐにお祓い祈祷しないとあなたは今年中に死ぬ」といった占い団体。

出鱈目だけならよいが、まだ30歳になったばかりの青年の人生に強い失意失望を与えてしまうような鑑定は許されない。

私は、この世界に入った人間としては「異業種参入」かもしれない、占い師さんの看板を見れば「幼少期から占術の家庭環境に・・・」とか、「鑑定歴30年・・・」とか、そのような環境には全く縁の無い世界からの参入だった。しかし、この世界に入って強く感じたことは、鑑定歴の永い割には、私が30歳代に味わったことが今も続いているということを実感した。

30歳代には、本当に藁にもすがる思いで占いに行ったのに、崖から突き落とすようなアドバイスには以後、占いなどは出鱈目詐欺と思うようになっていた。

そんな詐欺のような世界に異業種から参入の私にもびっくりだ。
私は先祖代々の占い師の家系でもなく、幼少期から占いに親しんだ環境も皆無で、電子関係の技術者を目指していた。非科学的なものなど当時は信じられなかった。親父が言うから行ったけれど、結果は腹立たしいものだった。「何をしても絶対成功しない」とは、いったいどういうことか。では、どうしたら良いのか? これへのアドバイスは一切無かった。
こんな事で大金を搾取するとは許せなかった。
このような記事を書くのは、紫微斗数の命宮に「生年化権星」が有るからだろう。そして「自化B」も同宮で、余計な主張で自分から試練を招くのだ。


しかし、あれから30年有余過ぎ、私はこんな世界で生計を立てていることに成ってしまった。
しかしだ、30歳代に味わった悪行ともいえることは絶対にしては成らないと、この世界に入った、その志は今でも変わらない。
命術で、その人の人生のシナリオは観える。吉凶も判る。でも、「凶だから残念ですね」とだけは伝えられない。「何故に凶なのか?」を常に知ろうとしたい、そのためには自分の嫌な人生は参考になる。同じ試練に晒されている人を何とかしてあげたい、そんな思いが今の自分を支えているのだなあって、最近実感するようになった。

これから世の中は益々不確実化して行くだろう、それ故に「占い」というものの需要は確実に増えるような気がする。しかし、ただ「吉凶」を伝えるものは淘汰されて行くようにも思う。
診断だけではもう時代遅れと思う、じっくり相談者さんと向き合い共に解決に向けて試行錯誤して行く時代と思っている。もっともパフォーマーとしての占いは有ってもいいのではないか、この二極化するのかも知れない。

不思議な縁は大切にして行きたい。


 ★★★★★★★★★★★★★★
新・紫微斗数の鑑定ご相談は
宮立命公式サイトへ
ご訪問は下記アドレスをクリック
★★★★★★★★★★★★★★

2017年10月24日火曜日

66年を振り返って-2



私のこれまでの人生を振り返って、どのような出来事がいつ起こったのか、命盤と照らし合わせると面白いだろうと思います。

幼少期や就学前のことに関しては、母や父の記録の記事に折込み書いてみました。
ここからは、小学校、中学校、高校の時期を振り返って記憶に有る印象的な出来事を書きます。


初めて小学校に入学した当時のことで記憶に有るのは、初めての授業が楽しかったことだった、ところが小学校34年生に成る頃には授業に就いて行けなくなっていた。何故か授業中に大人しく席に座って先生の説明する授業に集中出来なく、回りの生徒や教室の窓の外のことに意識が向いてしまい、先生に再三の注意を受けるようになってしまい、宮崎くんは「首ふり人形」と先生にあだ名を着けられた。その内に席に座って周囲をキョロキョロするだけでは収まらなくなり、席を立ち歩き回るようになってしまい、授業に支障が出て困った先生は、私の腰に紐を結び廊下に出る教室の出口の柱に犬のように繋がれて授業を進めるようになった。その間、私は授業などまったく聴いていなくて、何を考えていたのか覚えていないが、廊下を紐の届く範囲でウロウロしていた記憶がある。
授業はまったく面白くなく、毎日の学校生活が退屈で仕方なかった。
唯一、その当時の楽しかった授業科目は理科と図工や技術家庭科だった。理科は野山の花や天気など私にとっては日常に有る物なのに、考えてみると不思議なものを教えてくれる学問だった。図工や技術家庭科はじっと席に座っていなくても、動き回れて何かを作ることに楽しみと興味を覚えた。

この頃から、好きな科目と嫌いな科目にハッキリと成績の差が現れるようになった。
ただ、動き回るのは大好きだったが、走ることは鈍いし、骨と皮だけぐらいにやせ細って青白かったので筋力もなく、体育は大嫌いだった。元々生まれた時に未熟児のような状態だったので、運動系は大嫌い、でも野山を走り回ったりするのは大好きだった。家の周りは里山が広がっていたので、山に住んでいるようなものだから、四季折々に野山で遊ぶことに不自由は無かった、春には花々が咲き、その花の構造に興味を惹かれた。秋にはどんぐりや面白い形をした木の葉に飽きることはなかった。

また通信表には常に「虚弱体質、極めて消極的」と書かれたが、野山を駆け回って「漆の木の汁」に触れても決してかぶれる事もなく、ヤマツツジの花を食べても、川の生水を飲んでも腹を壊す訳でもなく、極めて健康的でアレルギーとは無縁の子供だった。また、山の木の枝に登ったり、ぶら下がったりして遊んで居るのに、体育の鉄棒はまったく駄目、走ればいつもビリ、体育は大嫌いだった。

体育が大嫌いな理由にはもう一つの理由が有った。それは私の身体が骸骨のようにやせ細っていたからだ。しかも足の形状はO脚で足を揃えても両膝の間には握りこぶしが入るほどの隙間が出来て、何とも格好悪く半ズボンは真夏でさえ履いたことが無かった、しかし、体育や運動会には嫌でも白のトランクスになので、その恥ずかしさで競技や演技どころではなかった。体育祭が近づくと学校に行くのも嫌になっていた。体育の日が大雨になるのを常に願っていたのだ。

私の命盤の「疾厄宮」は生まれながらの健康問題や生涯の健康状態を診る宮だが、状況は悪いのである。つまり生まれながらの健康ハンディを示している。
今でだから分かった様々な未熟な身体構造は、第5腰椎の欠損(生まれつきの第5腰椎分離症)、後に第5腰椎分離すべり症となる。肋骨の形状がお椀のように凹んでいる「漏斗胸」で肺活量が同級生に比べて極めて少なく運動能力に支障が出た。上半身を露出することに極めて嫌な思いをした。
手足の関節が弱く、直ぐに関節の故障を引き起こした。手首が人より細いのを恥ずかしく思った。腕時計も普通サイズではズルズル定まらなかった。
40歳代で治療法も原因も判らない「ヘバーデン変形結節症」を両手に発症、楽器演奏で収入を得ていた時だったから、人生お先真っ暗の挫折感を味わった。

骨格の異常が多いなど、成長とともに判明して来るのだが、そんなことは知らない私は成人してからも重労働等をして無理をしては多くの故障に遭遇した。

このように、身体を人目に曝すこと、肌を露出することを異常に嫌がった私は、そのような理由からも消極的になっていったと感じる。自分の身体の見た目が同級生とは違うことに負い目を感じるようになっていったのだ。


<続く>


 ★★★★★★★★★★★★★★
新・紫微斗数の鑑定ご相談は
宮立命公式サイトへ
ご訪問は下記アドレスをクリック
★★★★★★★★★★★★★★

2017年10月20日金曜日

66年を振り返って-1



私の記憶は、不思議だけれど多分、生後数ヶ月(10ヶ月以内)と思う。それは母親から授乳をされている様子を昨日のように覚えているからだ。母親の乳房に吸い付いてる記憶が、鮮明に残っている。
こんな幼少期の記憶が有る人は他には居ないのだろうと思っていたら、先日50歳代の男性の対面鑑定で私と同じように乳児期の記憶を持っている方と遭遇した。その方も私と同じく、母親の乳房を吸っている記憶が有ったのだ。実はその方は今で言う「アスペルガー」でしたが、私の幼少期の記憶をたどれば、やはり発達障害そのものだった。

最近にわかに「発達障害」という言葉を聞くようになった。しかし、このような障害は今に始まった訳では無かったのだ、大昔から有ったけれど、当時は誰もそのようなことは知らなかっただけなのだ。

アインシュタインもモーツアルトも発達障害の持ち主だったのではと思う。

発達障害に関しての解説は以下のサイトをご覧頂ければ詳しく解説されています。
< https://h-navi.jp/column/article/175 >リタリコ発達ナビ





私の紫微斗数の命盤です。最近は「発達障害」などを持っている方は命盤を、私は診ると判るようになってきました。命盤には、このような特異性が現れています。



予定の変更や初めての場所などに苦痛を感じる、普段は出来ていることが、場所が変わると出来ないなど。このため、会社勤務では、その日行ってみないと仕事内容がハッキリしない職種には苦痛が多く強いストレスを蓄積した。

強いこだわりを持つ
興味を持つことに対して、同じ質問を何度もすることが多いです。また、日常生活においても様々なこだわりを持つことが多いので、ものごとの手順が変わると混乱してしまうことが多いです。

集団になじむのが難しい
年齢相応の友人関係がない(基本的に親友は居ない)ことが多いです。周囲にあまり配慮せずに、自分が好きなことを好きなようにしてしまう子が多い傾向があります。人と関わるときは何かして欲しいことがある時なだけのことが多く、基本1人遊びを好みます。人の気持ちや意図を汲み取ることを苦手とする子も多いです。
幼少期から高校生まで友人は居なくて一人で家で過ごすことが普通で苦痛ではなく、楽しかった。

臨機応変に対応するのが苦手
きちんと決められたルールを好む子が多いです。言われたことを場面に応じて対応させることが苦手な傾向にあります。(占い師になってからは、どんな鑑定でも慌てることは無くなったが、飛び込み鑑定依頼には不快感が強い、自分のペースを乱されるから)

興味のあるものにはとことん没頭する
広汎性発達障害の子は上でも述べたように物事に強いこだわりをもっています。そのため、興味のあることにとことん没頭することが多いですし、その分野で大きな成果をあげられることもあります。
(この特性は紫微斗数に大いに発揮されていると実感している)

文章を理解できるが、書き写すことが困難(書字表出障害)
鏡文字(反転した文字)になる。自分で書いた文字が読めない。
鏡文字が書けるなど得意、普段は右利きだが左手で文字を書くと鏡文字になる)

左利き、右利きを併せ持っている(両利きである)したがって、ギターなどの楽器で左手を観なくても弾けるという便利さはあった。洋食を食べる時にナイフとフォークは楽である。箸も左右どちらでも使える。何かする時に左手を使うことは多いが、右利きでもある。

聴覚過敏が有るお陰で楽器の僅かなチューニング(音程)のズレが判る(不快でもある)
多数の楽器の中の誰かのチューニングがずれていると気付き、不快に思う。
オーケストラの演奏で多くの楽器が鳴っていても、それぞれの音色を楽しむことが出来ることは有り難い。合奏は苦手、人に合わせることが出来ないから。

数の概念が身につかず、数系列の規則性などが困難
数字の大小や10以下の概念が分からない。繰り上りの計算(短期記憶の欠如)や文章題が解けない。
私にとって電卓は必須のアイテムだ。
占い鑑定時に命盤の内容をスラスラ解読して行くが、記録を取っていないと自分で言ったことを覚えていない。まるで霊媒師の口から出る霊の言葉のよう!?
なので、相談者さんには録音かメモを取って貰うようにしています。

落ち着きがなく注意を持続する事が難しい、または困難である。
授業中立ち歩く、または途中でどこかに行ってしまう。
(現在は、症状は自然消失しているが、小学生時代には授業の支障になるので教室の柱に紐でつながれていた、そのため当時に学習するべきことは学んでいなくて、今でも漢字の書き順は出鱈目、算数は加減算ぐらいしか理解出来ず、分数も平方根もチンプンカンプン)

手書きで文章を書くことは最も苦手、パソコンなどのキーボードでの入力は手書き以上に早い、速記をするような感覚で出来る。文字は下手糞で幼稚園生のような文字なので、公のものに名前などを書く時は困っている。

事前によく考えて行動できない。物事をぱっと見で判断してしまい、うっかりミスをしてしまうことがよくある。なのに、占いの時は一変して、超真剣になるから不思議。アスペの成せる技なのか・・・


以上のような特性を幼少期に持っていて、成人してからも、これらの特性は持ち続けた。
ただ、年齢とともに自然消滅していった特性も多い。

このような特性は現在では「発達障害」として認知されるようになったが、本人もこのことに気付いていないことは非常に多いと思う。まして周囲の人間や家族も気づかず、単に言うことを聞かない「悪たれ小僧」と認識されているようだ。


私の人生は、このような事が基本になってスタートしていたのだと、今になって思う。
「引き寄せ効果」なのか、私の所には、このような相談も多い。


<続く>


 ★★★★★★★★★★★★★★
新・紫微斗数の鑑定ご相談は
宮立命公式サイトへ
ご訪問は下記アドレスをクリック
★★★★★★★★★★★★★★

2017年10月15日日曜日

父の人生 ③



私は高等学校を卒業して一年ほど実家を離れて下宿生活をした後に、次男が買ってくれた乗用車で実家から通勤するようになった。
しかし、あまり家の農業は手伝うことは無く遊び歩いていた。
そして、20歳前に職場で出会った女性と出会い、奇妙な交際が始まった。
奇妙な交際というのは、当時は奇妙とは感じなかったが、後に友人などから「お前の彼女は何か変だぞ」なんて言われ始めて「そうかなあ?」とあまり不思議には思わなかった。

しかし、奇妙なことが直ぐに現実になった。交際数ヶ月で彼女の両親から「結婚を前提に付き合って来れなければ、何処か他に嫁にださなければならん、もし結婚を前提なら、取り敢えず結納だけでも交わして欲しい、それを孝宏さんの両親と相談して返事をくれ」というのだ。

全くの女性遍歴のない尻の青い私にとっては、嬉しいような、まだ遊んでいたいし、ちょっと複雑な心境だった。
しかし、父親は「今は田舎には嫁の無い時代だ、それは有り難い話だ」というのです。
私は「そんなこと言ったって、俺には貯金なんて一銭も無いし、だいいち20歳で結婚なんて変だよ」
「いやあ、長生も(父の連れ子の長男のこと)結婚相手が見付からんで苦労した、金はお父さんが出すから結納の話を進めると彼女の親に言ってくれ」
と、こんな感じで彼女も私も関係の無いところで結納が進み結婚式まで漕ぎ着けてしまった。
友人が「お前の彼女の家は変だ」というのも、其後に成れば意味が分かったのだったが。

結婚して私は実家を出てアパート暮らしとなって、実家とは益々縁が遠くなっていった。


私のことは、またの機会に書くとしよう。ここでは、実家の両親のことについて書く。

それから3年後、父は農繁期には、会社の休みの日には農業を手伝って欲しいと連絡が来るようになった。

父が一生懸命に面倒を観てきた長男などの子供たち全員が実家を離れ寄り付こうとしなかった。その結果、幼少期には冷たく無視し続けてきた父親なのだが、この私が唯一頼りに成りだしたのだろう。
幼少期の頃の冷たさは無くなり、少しは穏やかな表情が観えるようになった父だった。
私も冷たくされていたといっても、優しくされる父に何処か欠けていたものが補われる思いがした。

そんなことから、土日などの休みの農繁期には稲作の田んぼを耕運機で耕す、田植え機で田植えをする、稲刈り機で稲を刈るなど、農業機械を使う作業はすべて私が行うようになった。

もっとも、最初は父が耕運機で耕し、田植えと借り入れは手作業行っていたのを、私が手伝う事が多かった。しかし、手作業ほど辛い農作業は無いのだ。田植えなんて直ぐに腰が痛くなり、翌日の会社勤務にも差し支えるほどであった。稲刈りも同様である。

もう私が手伝うことは常態化していた。これはとても敵わんと思い、ボーナスを叩いて田植え機と稲刈り機を父に買ってやった。

ところが、精密な大工仕事はする割には農業機械にはまったくの機械音痴である。
仕方ないので私が機械での作業は全て行うことにした。苗を育てるための籾蒔き、耕耘、田植え、刈り取り、脱穀と機械化出来るものはすべて揃えてやった。そして機械音痴の父に変わり私が一手に引き受けた。その代わり機械で出来ない所は父にすべて任せた。といっても母の負担も多かったのではと思う。


稲作の間には、玉ねぎ、レタスと農業は冬以外には暇無しである。出荷の際には軽トラックで私が運んでやった。後の作業は父が母を怒りながら作業していた。


私は結婚当時、一文無しであった故に、結婚のための結納金や結婚式の費用一切を父に出して貰った手前、農業は手伝わざるを得なかった。


会社勤務も5年ほどになると給与も上がり、会社の出荷製品の不具合も幸いな事(?)に多く、品質管理の担当者の私にとっては残業や調査謝罪の出張も多く、本給よりも手当の方が上回っていたから、農業機械の2台や3台は安いものだった。

が、その会社は8年目ぐらいで倒産してしまった。お陰様で私は失業しベンチャービジネスを志して貧困と試練の人生が始まるのであった。


< 父の人生終わり、次回はオムニバスで続く>


 ★★★★★★★★★★★★★★
新・紫微斗数の鑑定ご相談は
宮立命公式サイトへ
ご訪問は下記アドレスをクリック
★★★★★★★★★★★★★★

2017年10月2日月曜日

父の人生 ②



父の人生については、あまりよく判らない。特に父が幼少期の頃のことは全く判らない。
母については、本人から幼少期の頃から93歳で亡くなる2年ほど前までの事を老人ホームのベットの上で話して聞かせて貰っていた。

母の胸に抱かれて授乳させて貰っていた記憶とか、お爺さんと過ごした23歳の頃の記憶は今でも昨日のように鮮明に覚えている。そんなに古い記憶を覚えているのも普通は有り得ないらしい。多分、私の命盤の福徳宮が特殊な状態で有ることがそれを裏付けていると感じる。

父についての記憶も23歳ぐらいであろうと思う。毎朝のように父が短気を起こしては卓袱台をひっくり返し、茶碗を投げつけて母に怒鳴っていた記憶は鮮明に覚えている。そんな恐ろしい父を毎日観ているものだから、父に対する感覚は怖い人間、恐ろしい人間というイメージを持っていた。それ故に日常も私は父に近づくことは避けていた。
父が私の側を通ると独特の加齢臭がしたが、それが大変に嫌悪感の有る匂いで嫌であった。
父の部屋に近づくと同じように臭うので嫌であった。

嫌いになるとは、こんな状態なのだと今更に思い出してため息をついている。

私が小学校に上がる前には、近所も遠く同年代の子供は居なくて、本当に一人っ子状態でお爺さんと一緒に居るか、さもなくば一人遊びが中心だった。父が庭先で大工仕事の材木の刻み仕事をしていれば、その仕事でのカンナやノミを使う様が珍しくて遠くで観ていた。本当は近づいて目の前で観たいけど、側に寄るのは怖かった。


いよいよ小学校に上がる頃に成ると、私の入学に備えての準備が始まるが、兄たちとは違ってさほど慌ただしいものではなかった。兄たちが小学校、中学校と進学する度に、父は兄たちを連れて新品の学生服やランドセルを買いに行って、帰ってきてから兄たちが試着してお爺さんや家族に見せていた。

しかし、私の時には、そういうことは無くて、いつも兄たちが6年間着古したヨレヨレの学生服を母が手直しをしてくれていた。
私は生まれた時は、今で言う未熟児状態だったようで、五人兄弟の中では一番やせ細って小さかった。そのため学生服もズボンも長過ぎ、服も袖から手が出ない状態を、母は折り返して針で縫っていた。
学校に行くと、同級生は皆新品の服とランドセルだから、ヨレヨレの学生服と傷だらけのランドセルが恥ずかしかった。

参観日も父親参観日にも父は一度も姿を観せたことが無かった。
高校に入る時に滑り止めに受験した私立高校の入学手続きに初めて一緒に行ってくれたことをよく覚えている。それだけは嬉しかった。

その後、滑り止めの私学には入らずに済んで、公立の電気高校に入ってからは父とは再び縁が無くなっていた。だから私は父の記憶が薄いのだ。しかし、私の命盤の父母宮だけを観ても、それらしきものは見当たらない。
欽天派では、父母宮は父親を観る訳だが、父母宮には「貪狼」で男星ですが、兄弟宮にも「武曲・天府」と女の星が2つ。何故か女性の星ばかり。
もっとも、私のこれまでの人生で圧倒的に女性には縁が多いものだった。私が世帯を持っても女系家族で、母と妻と三人の娘という家族構成であったし、父も三人の妹に囲まれ二人の妻という、女性に縁の多いものだった。
三人の妹たちは全員嫁いだ後も、年中父の居る実家に来ていた。父がコタツで妹たちの愚痴を聴く専門家の役目を果たしていた。よくも飽きもせずに朝から夕方まで、ずっと延々と愚痴が聞けるものだと、私は子供ながらに感心していた。妹たちの愚痴は毎回エンドレステープみたいにオンデマンド放送だった。
愚痴の内容を私はすっかり記憶して人に話せるくらいに成っていた。

私が中学、高校と進学している六年間の父の記憶は抜けている。父が毎日母とどんな風に成っていたのかは覚えていない。仲が悪いことには代わりは無いが、覚えていない。

私は高校を卒業すると実家を出て会社が探してくれた下宿(今では、こんな言葉を知らない人も居るのでは)先の民家に住むことになり、盆暮れに実家に帰る程度に縁が遠くなった。

実家を離れ下宿生活を1年ほどして、次男の勧めで実家から会社に通うことに成った。そのために次男は中古車では有ったが私に普通車を購入してプレゼントしてくれた。今になって思えば決して安くない買い物なのに、この私に高額のプレゼントをしてくれたことになる。
それをきっかけに以降、20歳で結婚するまで私は実家に父母と同居する事になった。
しかし、実家に入っても私は、日中は会社に行っているし、土日は神奈川県の友人のアパートに山梨から泊まり込みで遊びに行くことが日常だったので、益々父母のことは判らなくなっていた。
この時期、多分、父は大工仕事が入る度に母に農業一切を任せて居たのだろうと思う。
この頃が、母にとっては地獄のような日々で有ったのだろう。

私が農業を手伝って居れば、母は疲労困憊するまでに健康悪化は免れたのかも知れない。
そんなことは露とも知らず、私は仕事が終われば毎日遊び歩いていた。
もしかしたら、兄が自動車を買ってくれたのは、私が農業を手伝うことが目的に入っていたのかも知れない。だが兄から、そのようなことは聴くことは無かったが、一つだけ記憶が有る。
いつのことなのか忘れてしまったが、兄は「孝宏、家を就いだ方が楽だぞ、家を建てれば金も必要だし、実家に居れば、その必要は無い、衣食住も助かるぞ」、実はその言葉を聴いて私はもの凄く得をしたように感じた。

事実上、私は跡継ぎのようになった。しかし、20歳で結婚してしまって新婚生活の為にアパート住まいになったので、結局は実家の農業を手伝うことは少なかった。

幸い19歳で転職した会社では出世もして収入も多かった。
そんな時、縁の薄い父から休みの日には農業を手伝って欲しいと頼んできた。
「お母ちゃんが、ノロマで農作業の足しに成らん、俺が一人で頑張っているようなもんだ、手伝ってくれ」そう父から言われたので内心嫌では有ったが土日に手伝いに行くようになった。

土日休みに農業を手伝いに行ってみると、玉ねぎの消毒作業をしていた。消毒用の動力ポンプなどは使わず大きな手押しポンプで薬液をホースに送出していたのだ。それは母の役目で、父は長いホースの先の噴霧器で玉ねぎに薬液を噴霧していた。
私が畑に現れると父は「孝宏、お母ちゃんに変わってポンプを煽ってくれ、お母ちゃんはノロマで農薬が出てこん」
私は母に変わってポンプを煽りだした。ポンプを煽る作業は驚くほどキツイものだった。
昔の手押しの消防ポンプのようなものだ。5~6回煽るとへとへとになるのだ。こんなのを母は毎日延々とやらされていたのかと思ったら可愛そうになった。
それでも父は「お母あは、渋太くて幾ら言っても言った通りにポンプを煽らん」と怒鳴っている。
私も父には何故か逆らえなかった。

その後は、農作業を手伝いたくないから、休日出勤だの何だのといって農作業の手伝いをサボった。きっとその間は母が奴隷のように酷使されていたのだろう。


< 続く >


 ★★★★★★★★★★★★★★
新・紫微斗数の鑑定ご相談は
宮立命公式サイトへ
ご訪問は下記アドレスをクリック
★★★★★★★★★★★★★★

宮立命ブログは引っ越しをします。

Goo blog をご覧の皆様いつもご訪問ありがとうございます。 宮立命のblogはAmeba(アメーバ)blogで情報展開中です。 どうぞ、ご訪問をお待ちしています。 こちらのGoo blogは今回で更新を終了します。 宮立命アメーバブログは以下のAmeb...