父の人生については、あまりよく判らない。特に父が幼少期の頃のことは全く判らない。
母については、本人から幼少期の頃から93歳で亡くなる2年ほど前までの事を老人ホームのベットの上で話して聞かせて貰っていた。
母の胸に抱かれて授乳させて貰っていた記憶とか、お爺さんと過ごした2~3歳の頃の記憶は今でも昨日のように鮮明に覚えている。そんなに古い記憶を覚えているのも普通は有り得ないらしい。多分、私の命盤の福徳宮が特殊な状態で有ることがそれを裏付けていると感じる。
父についての記憶も2~3歳ぐらいであろうと思う。毎朝のように父が短気を起こしては卓袱台をひっくり返し、茶碗を投げつけて母に怒鳴っていた記憶は鮮明に覚えている。そんな恐ろしい父を毎日観ているものだから、父に対する感覚は怖い人間、恐ろしい人間というイメージを持っていた。それ故に日常も私は父に近づくことは避けていた。
父が私の側を通ると独特の加齢臭がしたが、それが大変に嫌悪感の有る匂いで嫌であった。
父の部屋に近づくと同じように臭うので嫌であった。
嫌いになるとは、こんな状態なのだと今更に思い出してため息をついている。
私が小学校に上がる前には、近所も遠く同年代の子供は居なくて、本当に一人っ子状態でお爺さんと一緒に居るか、さもなくば一人遊びが中心だった。父が庭先で大工仕事の材木の刻み仕事をしていれば、その仕事でのカンナやノミを使う様が珍しくて遠くで観ていた。本当は近づいて目の前で観たいけど、側に寄るのは怖かった。
いよいよ小学校に上がる頃に成ると、私の入学に備えての準備が始まるが、兄たちとは違ってさほど慌ただしいものではなかった。兄たちが小学校、中学校と進学する度に、父は兄たちを連れて新品の学生服やランドセルを買いに行って、帰ってきてから兄たちが試着してお爺さんや家族に見せていた。
しかし、私の時には、そういうことは無くて、いつも兄たちが6年間着古したヨレヨレの学生服を母が手直しをしてくれていた。
私は生まれた時は、今で言う未熟児状態だったようで、五人兄弟の中では一番やせ細って小さかった。そのため学生服もズボンも長過ぎ、服も袖から手が出ない状態を、母は折り返して針で縫っていた。
学校に行くと、同級生は皆新品の服とランドセルだから、ヨレヨレの学生服と傷だらけのランドセルが恥ずかしかった。
参観日も父親参観日にも父は一度も姿を観せたことが無かった。
高校に入る時に滑り止めに受験した私立高校の入学手続きに初めて一緒に行ってくれたことをよく覚えている。それだけは嬉しかった。
その後、滑り止めの私学には入らずに済んで、公立の電気高校に入ってからは父とは再び縁が無くなっていた。だから私は父の記憶が薄いのだ。しかし、私の命盤の父母宮だけを観ても、それらしきものは見当たらない。
欽天派では、父母宮は父親を観る訳だが、父母宮には「貪狼」で男星ですが、兄弟宮にも「武曲・天府」と女の星が2つ。何故か女性の星ばかり。
もっとも、私のこれまでの人生で圧倒的に女性には縁が多いものだった。私が世帯を持っても女系家族で、母と妻と三人の娘という家族構成であったし、父も三人の妹に囲まれ二人の妻という、女性に縁の多いものだった。
三人の妹たちは全員嫁いだ後も、年中父の居る実家に来ていた。父がコタツで妹たちの愚痴を聴く専門家の役目を果たしていた。よくも飽きもせずに朝から夕方まで、ずっと延々と愚痴が聞けるものだと、私は子供ながらに感心していた。妹たちの愚痴は毎回エンドレステープみたいにオンデマンド放送だった。
愚痴の内容を私はすっかり記憶して人に話せるくらいに成っていた。
私が中学、高校と進学している六年間の父の記憶は抜けている。父が毎日母とどんな風に成っていたのかは覚えていない。仲が悪いことには代わりは無いが、覚えていない。
私は高校を卒業すると実家を出て会社が探してくれた下宿(今では、こんな言葉を知らない人も居るのでは)先の民家に住むことになり、盆暮れに実家に帰る程度に縁が遠くなった。
実家を離れ下宿生活を1年ほどして、次男の勧めで実家から会社に通うことに成った。そのために次男は中古車では有ったが私に普通車を購入してプレゼントしてくれた。今になって思えば決して安くない買い物なのに、この私に高額のプレゼントをしてくれたことになる。
それをきっかけに以降、20歳で結婚するまで私は実家に父母と同居する事になった。
しかし、実家に入っても私は、日中は会社に行っているし、土日は神奈川県の友人のアパートに山梨から泊まり込みで遊びに行くことが日常だったので、益々父母のことは判らなくなっていた。
この時期、多分、父は大工仕事が入る度に母に農業一切を任せて居たのだろうと思う。
この頃が、母にとっては地獄のような日々で有ったのだろう。
私が農業を手伝って居れば、母は疲労困憊するまでに健康悪化は免れたのかも知れない。
そんなことは露とも知らず、私は仕事が終われば毎日遊び歩いていた。
もしかしたら、兄が自動車を買ってくれたのは、私が農業を手伝うことが目的に入っていたのかも知れない。だが兄から、そのようなことは聴くことは無かったが、一つだけ記憶が有る。
いつのことなのか忘れてしまったが、兄は「孝宏、家を就いだ方が楽だぞ、家を建てれば金も必要だし、実家に居れば、その必要は無い、衣食住も助かるぞ」、実はその言葉を聴いて私はもの凄く得をしたように感じた。
事実上、私は跡継ぎのようになった。しかし、20歳で結婚してしまって新婚生活の為にアパート住まいになったので、結局は実家の農業を手伝うことは少なかった。
幸い19歳で転職した会社では出世もして収入も多かった。
そんな時、縁の薄い父から休みの日には農業を手伝って欲しいと頼んできた。
「お母ちゃんが、ノロマで農作業の足しに成らん、俺が一人で頑張っているようなもんだ、手伝ってくれ」そう父から言われたので内心嫌では有ったが土日に手伝いに行くようになった。
土日休みに農業を手伝いに行ってみると、玉ねぎの消毒作業をしていた。消毒用の動力ポンプなどは使わず大きな手押しポンプで薬液をホースに送出していたのだ。それは母の役目で、父は長いホースの先の噴霧器で玉ねぎに薬液を噴霧していた。
私が畑に現れると父は「孝宏、お母ちゃんに変わってポンプを煽ってくれ、お母ちゃんはノロマで農薬が出てこん」
私は母に変わってポンプを煽りだした。ポンプを煽る作業は驚くほどキツイものだった。
昔の手押しの消防ポンプのようなものだ。5~6回煽るとへとへとになるのだ。こんなのを母は毎日延々とやらされていたのかと思ったら可愛そうになった。
それでも父は「お母あは、渋太くて幾ら言っても言った通りにポンプを煽らん」と怒鳴っている。
私も父には何故か逆らえなかった。
その後は、農作業を手伝いたくないから、休日出勤だの何だのといって農作業の手伝いをサボった。きっとその間は母が奴隷のように酷使されていたのだろう。
< 続く >
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