私は高等学校を卒業して一年ほど実家を離れて下宿生活をした後に、次男が買ってくれた乗用車で実家から通勤するようになった。
しかし、あまり家の農業は手伝うことは無く遊び歩いていた。
そして、20歳前に職場で出会った女性と出会い、奇妙な交際が始まった。
奇妙な交際というのは、当時は奇妙とは感じなかったが、後に友人などから「お前の彼女は何か変だぞ」なんて言われ始めて「そうかなあ?」とあまり不思議には思わなかった。
しかし、奇妙なことが直ぐに現実になった。交際数ヶ月で彼女の両親から「結婚を前提に付き合って来れなければ、何処か他に嫁にださなければならん、もし結婚を前提なら、取り敢えず結納だけでも交わして欲しい、それを孝宏さんの両親と相談して返事をくれ」というのだ。
全くの女性遍歴のない尻の青い私にとっては、嬉しいような、まだ遊んでいたいし、ちょっと複雑な心境だった。
しかし、父親は「今は田舎には嫁の無い時代だ、それは有り難い話だ」というのです。
私は「そんなこと言ったって、俺には貯金なんて一銭も無いし、だいいち20歳で結婚なんて変だよ」
「いやあ、長生も(父の連れ子の長男のこと)結婚相手が見付からんで苦労した、金はお父さんが出すから結納の話を進めると彼女の親に言ってくれ」
と、こんな感じで彼女も私も関係の無いところで結納が進み結婚式まで漕ぎ着けてしまった。
友人が「お前の彼女の家は変だ」というのも、其後に成れば意味が分かったのだったが。
結婚して私は実家を出てアパート暮らしとなって、実家とは益々縁が遠くなっていった。
私のことは、またの機会に書くとしよう。ここでは、実家の両親のことについて書く。
それから3年後、父は農繁期には、会社の休みの日には農業を手伝って欲しいと連絡が来るようになった。
父が一生懸命に面倒を観てきた長男などの子供たち全員が実家を離れ寄り付こうとしなかった。その結果、幼少期には冷たく無視し続けてきた父親なのだが、この私が唯一頼りに成りだしたのだろう。
幼少期の頃の冷たさは無くなり、少しは穏やかな表情が観えるようになった父だった。
私も冷たくされていたといっても、優しくされる父に何処か欠けていたものが補われる思いがした。
そんなことから、土日などの休みの農繁期には稲作の田んぼを耕運機で耕す、田植え機で田植えをする、稲刈り機で稲を刈るなど、農業機械を使う作業はすべて私が行うようになった。
もっとも、最初は父が耕運機で耕し、田植えと借り入れは手作業行っていたのを、私が手伝う事が多かった。しかし、手作業ほど辛い農作業は無いのだ。田植えなんて直ぐに腰が痛くなり、翌日の会社勤務にも差し支えるほどであった。稲刈りも同様である。
もう私が手伝うことは常態化していた。これはとても敵わんと思い、ボーナスを叩いて田植え機と稲刈り機を父に買ってやった。
ところが、精密な大工仕事はする割には農業機械にはまったくの機械音痴である。
仕方ないので私が機械での作業は全て行うことにした。苗を育てるための籾蒔き、耕耘、田植え、刈り取り、脱穀と機械化出来るものはすべて揃えてやった。そして機械音痴の父に変わり私が一手に引き受けた。その代わり機械で出来ない所は父にすべて任せた。といっても母の負担も多かったのではと思う。
稲作の間には、玉ねぎ、レタスと農業は冬以外には暇無しである。出荷の際には軽トラックで私が運んでやった。後の作業は父が母を怒りながら作業していた。
私は結婚当時、一文無しであった故に、結婚のための結納金や結婚式の費用一切を父に出して貰った手前、農業は手伝わざるを得なかった。
会社勤務も5年ほどになると給与も上がり、会社の出荷製品の不具合も幸いな事(?)に多く、品質管理の担当者の私にとっては残業や調査謝罪の出張も多く、本給よりも手当の方が上回っていたから、農業機械の2台や3台は安いものだった。
が、その会社は8年目ぐらいで倒産してしまった。お陰様で私は失業しベンチャービジネスを志して貧困と試練の人生が始まるのであった。
< 父の人生終わり、次回はオムニバスで続く>
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