お爺さん
前々回の記事に、私の父(?)のことを書きました。
親子の本当の事が解ったのは私が50歳代になってからです。
物心付いた頃から、良い思い出は皆無でした。毎日が修羅場で、今に例えればイスラム国が活動する中東みたいな毎日でした。
そんな毎日でもホッとするつかの間がありました。それはお爺さんと過ごしている時間でした。
3~4歳だった頃と思います。今でも脳裏に焼き付いている情景は、お爺さんはこげ茶色の着物を着て縁側に腰をおろし、黒い鉄製の南瓜ぐらいの大きさの煙草盆を側に置き、長い煙管にひとツマミの刻みたばこを詰め込んではマッチで火を付ける姿です。
火を付けた後は2~3回吸えば、灰になってしまうタバコを煙草盆の縁に、キセルをポンと打ち付け、赤い小さな火の玉の塊がコロコロっと煙草盆の中に転がる。こんな光景を朝から何回も繰り返し見ていました。まあ私も飽きもせずに眺めていたものです。
タバコの品名も今でもしっかり覚えています。総天然色カラーの映像で覚えています。それは「みのり」といって稲穂のデザインの刻み煙草と、「ゴールデンバット」といって動物のコウモリの絵柄のタバコです。時々「しんせい」なんていう名前の刻み煙草も吸っていました。
いずれも値段は、何十円で100円以下でした。タバコは直ぐに無くなるので、お爺さんは私に十円玉を数個握らせ近くの雑貨屋に買いに行かされました。
タバコを買いに行く時は、お駄賃に何か買っても良いことに成っていました。大概は駄菓子とか飴玉です。一個1円ぐらいです。駄菓子屋さんまで自転車で行けば5分ほどですが、4歳程度の子供の足ではメッチャ遠い所に思えました。タバコ買いに行く時は遠いので嫌でした。でもよく素直に買いに行っていたものです。
私がある程度大きくなった時にお爺さんは亡くなりましたが、その時に雑貨屋さんに買い物に行きましたら、雑貨屋さんのおばさんが「孝宏ちゃん、良かったね、今度からタバコを買いに行かされなくてねえ」、私はそんなに嫌な顔をしてタバコを買いに来ていたのか。
お爺さんは、とても穏やかで怒っている姿も、怒られたことも記憶がありません。
でも、冬にはコタツでお爺さんの膝の中に入って抱っこされている時には、お爺さんからは必ず日露戦争の活躍した話を聞かされ、勲章の入ったA4サイズほどの桐の箱を開けて見せてくれました。中には布のリボンみたいな物が付いたバッジのような物が幾つか並んでいました。
お爺さんの日露戦争の話は、「旅順攻囲戦」といわれるものだったが、当時の私にはチンプンカンプンだった。ただ覚えているのは、お爺さんは砲兵隊の大砲係で、大きな山越えで、山の向こうの港の戦艦を沈めたり、山の上の敵の大砲に命中させぶっ壊した話が多かった。
時には大砲の手入れをしていて、間違って大砲をぶっ放して上官に怒られた話など、如何にも嬉しそうに話していた。小さい頃、実家の押し入れの天井付近の棚に日本刀が有った。鞘を抜いてみればボロボロに刃毀(はこぼれ)れした日本刀だった。お爺さんの話では敵兵を何人も切り捨て、その際に骨まで達したので刃がボロボロになったと聞かされた。小さな私は実際に人を斬り殺す、そんな光景を見た訳でも無いので、恐ろしいとかいう感情は沸かなかった。ただ、すごくカッコいいお爺さんに憧れたものだった。
今になって思えば、とんでもないことである。本物の実戦に使った日本刀が家に有った事自体、ヤバイじゃんと思う。しかし、その日本刀は短気を起こして暴れる父が刀を抜いて年中振り回すので、お爺さんが何処かに処分してしまって、私が小学校に上がる頃には行方不明となっていた。
父(?)は第二次大戦中も身体的に小柄だったらしく兵役を免れ「赤紙」も来なかった。大工でもあったので横浜の機関車の客車の木工大工として実家を離れていた。小度胸なので兵役は無理であったろうとも思う。それなのに日本刀を振り回すのだから凄いのだ。
一方で大変に穏やかなお爺さんが武勇逞しいのだから、4歳の幼子も惚れてしまう訳である。
そんな、お爺さんも終戦とともに家に帰り普通の爺さんになったのである。
お爺さんは婿入りで、農業はあまり得意では無かったようだ。職業軍人らしくて兵役引退後はたいそう高額な年金を貰っていたようでお金には不自由しなかったらしい。農業を手伝う訳でも無いので、部落や村々を歩き回って結婚の縁談話をまとめるのが大好きで、何組も世話をしたと、私が大きくなってから部落の人から聞いた。
今の私の人相は、そのお爺さんにそっくりに成ってきたので、内心嬉しいのである。
ちなみに父に似ていなくて・・・なのだ。
お爺さんは、私が小さい頃は常に一緒に居てくれることが多く、小学校に上がってからも遠足にも必ず一緒に行ってくれたし、参観日にも母親が来れない時にはお爺さんが来てくれた。
父親参観日にも、父(?)はコタツでうたた寝し、お爺さんが父代わりに来てくれた。
本当に母子家庭みたいな感じの幼少期であった。
紫微斗数で診ればお爺さんは命宮に「武曲・天府」遷移宮が「七殺」ではないかと思う。
お爺さんには感謝している。
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