父の人生 ①
母が70歳前ぐらいに脳卒中で倒れ、以後は半身麻痺で歩くこともままならなく成り、温泉病院のリハビリを薦めるが「嫌だ」ということで、リハビリは諦めて退院許可が出たら、家に戻ろうということに成った。
治療が進みトイレにも歩いて行くようにと病院内で歩行のリハビリが始まった。
理学療法の先生に付き添ってもらい病院の廊下で歩行器を使い歩く練習である。麻痺している方の足は引きずるのが精一杯で3m進むのにも時間が掛かる。しかし母は一生懸命である。あれほどリハビリは嫌だと言ったくせに、いつまでも歩行練習を続けていた。しかしだ、手の方のリハビリになるとガンと拒否である。
拳のように握ったままの手は、棒の先のようになって何の役にも立たない。
理学療法の先生が病室に来ては、指を一本ずつ動かすマッサージをしてくれるのだが、「痺れていてくすぐったい」と触らせるのさえ拒否する始末である。なのに足のマッサージは痺れてくすぐったくても受け入れていた。私には母の魂胆は読めていた。歩けないと自分が何より不便で困るが、手は片手が使えれば取り敢えずは生活が出来るからだ。
これで、手も普通に使えるように成ったら、倒れる前のように親父に畑仕事をやらされるのではないかと、それを何よりも恐れていたのだろう。退院して何ヶ月も経った頃、こっそりそのことを指摘したら、母は「お母ちゃんわな、もう、こんりんざい畑にゃあ行かんからな」と笑っていた。
半身不随になってからの方が母は明るくなった。
毎日が楽しいと、朝から夜まで家の中にいて本を次から次へと読み始め読書家に成った。
新聞も隅から隅まで読み通し社会全般、政治、経済、世界情勢までも論評する始末である。
畑で土埃に紛れていたモンペのお婆さんではなく評論家のようであった。それを私に、ああだこうだと講釈をするのには恐れ入った。
元々は母方の親は文芸肌であったから当たり前かも知れない、先祖には俳句の塾を開いていた者も居たそうだ。
一方の父方は根っからの百姓だ。
これではお姑婆さんにイジメられる訳だ。
母が退院して来て片手が完全麻痺なのであるが、台所の家事は何とかやれていた。
出来ないことは両手でやらなければ成らない農作業だった。以来、母は家事全般に徹していた。バケツに水を汲んで片手で吊るして持ち歩くことは、多少はビッコでは有るが出来ていた。
一方、父親はたくさんの農作業を一切一人でやらなければ成らなくなった。
大工仕事の依頼はずっと来ていたが、ほとんど断っていた。畑の作物が心配で大工に行く暇などは無くなってしまったのだ。そして何ヶ月も大工道具を使わないで蔵にしまって置いたら、カンナもノミも錆び始めていた。錆び始めていた大工道具を久しぶりに蔵から出して、眺めていた親父は如何にも寂しそうだった。
私が「お父さん、道具が錆びてりゃ切れ味は悪りいらに?」
「おお、ここまで錆りゃ、研いでも元にゃあ戻らん、もう大工はお終めえだ」
親父はお気に入りの大工道具には、誰にも指一本も触れさせなかった。
カンナの刃なども常に研いで髭さえも剃れるほどだった。なのにだ、今は錆びて刃先がボロボロ。
親父の幼少期の事は皆目判らない。
お爺さんに聴いても話して貰ったことは無かった。
もちろん母からも聴くことは無かった。分かっているのは母が再婚してからのことだ。
母が言うのには、四人兄弟姉妹の男一人の長男で生まれ、厳しい母親に姉妹の面倒を観させられ、百姓の手伝いも年中させられていたそうだ。
父の母(お姑婆さん)は厳しい人で母が嫁に来て一度も笑顔や笑ったことなど見たことは無かったそうだ。一方、父親のお爺さんは婿入りで陽気な人で部落でも好かれていたそうだ。
当然、お姑婆さんとお爺さんの仲は悪かったらしい。というか、いつも怒って怒鳴っているお婆さんをお爺さんは相手にしていなかったようだ。
お婆さんは父を旦那のように身近の存在にしていたらしい。何をするにも「清治、清治」と頼んでいたようだし、あれほどの神経質で短気の親父もお婆さんには一切立て付けないで大人しく従っていたようだ。
三人の妹たちも全員嫁いだが、先祖の因縁なのだろう嫁ぎ先でそれぞれに苦労していたようだ。
私が物心着いた時には年中、妹たち(叔母さん)が家に来て半日以上、あるいはお昼前に来て、お昼を食べて、更には夕飯も食べて、夕方まで、親父とコタツで延々と愚痴を話していた。親父は「そうか、そうか」と飽きもせずに夕方まで話を聴いていた。
そんな時に母は、その話には一切加担せずに別の部屋で自分の事をしていた。幼い私も親父姉妹の話には子供心にも楽しい雰囲気は何も感じなく、むしろ嫌な雰囲気(二人の形相で)なので、母の居る部屋で、母の針仕事を眺めていた。母が居ない時は別室のお爺さんの膝の中に居た。
お姑婆さんは一生笑顔の無い人だったようだ。
親父の笑顔も見たことは無かったと、母は言っていた。
ただ親父の晩年に私が農作業を手伝うようになってからは、嬉しそうな笑顔は時々見せるようになっていた。しかし、ケラケラ笑うことは有り得なかった
父は兄たちがラジオで歌謡曲など聴いていると、「煩い、止めろ」といってスイッチを切ってしまう。
お爺さんがラジオで落語や浪花節が好きで聴いていると、親父は黙って大人しくしているが、お爺さんが何処かへ行ってしまうと、親父は「俺らあ、本当にこういうお笑いは大嫌いだ」と言って荒っぽくスイッチを切っていた。
楽しいこと、愉快なことは鳥肌が立つくらいに嫌いだったのだろう。
もう、この時にはお姑婆さんは他界していたのだが。
< 続く >
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