母の人生 ③
母と父は同じ屋敷内で別居状態になった。
と、言っても夜寝る時だけであるが、私はまだ生まれて居なかったので、実際にはどんな状態だったのかは判らない。
嫁は絶対服従の仕来り(しきたり)のお姑なのだから、夜の別居は如何なものだったのか?
一人息子を取り戻して歓迎したのか、それとも「実力行使をするとは大した度胸だ」と更に厳しさがエスカレートしたのかは、聴きそびれてしまった。
それから数年、お姑婆さんは益々異常行動が激しくなり(今で言う認知症?)、益々暴力的になり日常の生活にも支障が出るようになり、お爺さんも困り果てていたし、息子である父すらもお爺さんの意見に従ったのであろう。
お姑婆さんは庭先に有る蔵の中に暮らすことになった。日中すらも蔵から出ることは出来なくなったらしい、いわゆる「徘徊」が激しくなり蔵から出れば暴れまわり、昼夜問わず完全に独房・禁固刑のような日常となった。蔵には窓などは無く真っ暗である。食事は適当なお椀に入れて蔵の中のお婆さんに差し入れて、しばらくしてお椀を取りに行くと空になったお椀に糞が入っているそうだ。
この記事のシリーズは、かなりエグい内容だが、こんな現実だったのだから素直に書くことにする。
昭和10年代という昔なのだから介護サービスが有る訳ではない。
当時は、認知症になる前に寿命が尽きてしまう人の方が多かったのだろう。しかし、どうも父親の方の家系には精神的に参ってしまうDNAでも有るのかも知れない。
姑婆さんも早くから鬼婆のような性格だったし、親父も70歳にはトンチンカンの事を言うことが多くなったし、婆さんと似たところがあった。
昔は家族に異常者が出れば何処かに隠して暮らさせていたようだ。
やがて、お姑婆さんは寿命が尽きて哀れな死を向かえた。あれほど恐ろしい目に遭った母も、やっと春が来た思いだったろう。
親父も多少は落ち着いたようだったが、しかし夜の不満から母への虐待は続いた。男と言うものは夜の不満は妻への冷酷な態度に変わり易く、昼の夫婦関係にも必ずや影響が出るものだ。
家計費は一切与えず、買い物が必要な時は、何をどのくらい買うかで金額を決めて与えた。母の小遣いなどは認められていないし、もちろん子供への駄菓子など買い与える事などご法度である。
母の方にも知恵が付いていた、多少多めの金額を言っては釣り銭を密かに貯め込んでいた。
それでも、とても必要な金額は望めなかった。化粧品などは手に入れられず困り果てていた。
そんな母を観るに見兼ねてお爺さんが、息子の居ない留守にそっと母に数千円のお金を渡し始めたのだ。「息子には絶対に言うな、間違っても知られないようにな、何処かに隠しておけ」とお爺さんは母の手に札を握らせた。お爺さんは、それ以来定期的に母に小遣いをあげていたようだ。
お金を手にしても、それを気前よく使う訳にはいかなかった。そんなことをしたら直ぐに親父にバレてしまうだろう。欲しいものを買っても、それを親父には見られないように使わなければ成らなかったのだ。
母はお爺さんの優しさに気持ちは徐々に傾いていったようだ。
そんなお爺さんの母への気持ちは、一緒に暮らしている親父にも何かを気付かせることになっていった。それから数年経って母の腹が膨らみ始めたのだ。その時の親父の様子について詳細を母から聴くことはできなかった。親父から益々冷たくされたことには変わりは無かったようだ。
毎日、両親の地獄のような様子を見せ付けられていた先妻の子供二人と後妻の子供二人は仲が悪くなっていき、更にはどちらの子供たちも両親から気持ちが離れ始めていたようだ。それ故に四人の子供たちは就学時期が終わると同時に逃げるように実家を出ていった。そして盆暮れ正月にもあまり実家に戻って来ることは無かった。
私は生まれてから一人っ子のような記憶しか残っていない。
話は戻るが、ある日の朝のご飯の時、些細な事で親父は切れた。
親父は例のごとく家族8人の朝食が載った卓袱台をひっくり返して、手に持っていた味噌汁のお椀を投げつけた。中の味噌汁は部屋中に飛び散り凄い剣幕であった。
親父は何かをわめきながら押し入れの日本刀を持ち出し、鞘から抜いて振り回し始めたのだ。
その日本刀はお爺さんの戦勝記念品(?)であったから、お爺さんは親父に飛びかかり日本刀を奪い取ったのだ。さすが元陸軍兵である。若い親父よりも老体のお爺さんの方が技では優れていた。日本刀を奪われた親父は「死んでやる」と叫んで農薬の置いてある蔵に裸足で走ったが、ここでもお爺さんが追いかけていって取り押さえたのである。
その時の戦闘シーンの映像から私の人生の記憶はスタートしている。まるで映画のプロローグみたいに、その後に字幕が現れる感じである。私がこの世に現れて初めて観る人間という生き物の現実である。恐ろしいという以外の実感は無かった。私はヨチヨチ這って歩く程度だったので、その顛末を観てただただ大声で泣いていた。そんな時代の記憶が有るのも何か私は変である。
それから、私の映像は現在に至るまで長く続く長編映画なのだ。
私は歩けるように成長し、普段はお爺さんと一緒に一日を過ごすことが多かった。
母は畑に朝から夕方まで行っているらしく、日中は姿を観た記憶が少ない。夕方になれば土だらけのもんぺ姿で籠を背負って家に帰ってきた。
親父も大工道具を担いで何処からか帰ってきて、そして平穏な一日に終止符が打たれ、怒鳴り声が響き始めていた。
< 続く >
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